日本バングラデシュ協会に参加の皆様へ

日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(第12号)  2015年7月17日

■目次
1)『日本バングラデシュ協会メルマガ12号会長メッセージ
   -2年目を迎える日本バングラデシュ協会の課題-』 会長:堀口松城
2)『回想: 独立直後のダッカ大学「スタッフ・クォーター」』に暮らして
                             奈良安紀子
3)『バングラデシュの政治、経済関係の動きについて』
4)『事務連絡』

 

■1)日本バングラデシュ協会メルマガ12号会長メッセージ
   -2年目を迎える日本バングラデシュ協会の課題-   会長:堀口松城

1.去る6月27日、品川高輪のカンファランス・センターにおいて、日本バングラ
デシュ協会第2回社員総会と懇親会が開催されました。総会では53名の会員の出席
の下に、事前に配布された平成26年の事業報告、決算報告、主たる事務所の住所
変更に伴う定款改正案、新役員の選任等の議案が承認され、次いで平成27年度の
事業計画、予算案の報告が了承されました。
引き続いて行われた懇親会では、河合新事務局長の司会の下、来賓のモメン大使
や外務省の多賀南アジア地域調整官のご挨拶の後、バングラデシュの政治、経済、
社会、文化についてより広く、深く知り、日バ両国友好関係の推進に寄与したい
と願う共通の目標を有する会員の間で、様々な年齢や異なるバックグラウンドを
超えて会話に花が咲き、予定の2時間がアッという間に過ぎてしまいました。懇談
会中、あるいは終了後、多くの参加者から、楽しかった、大変有意義であったと
の感想が寄せられました。
2.総会での協会側説明や質疑応答を通じて明らかとなった協会2年目の課題は、
次のとおりです。
(1)協会基盤強化のための会員の増加 
本協会は昨年7月、個人会員53名、法人会員4社でスタートしましたが、昨年度末
時点で個人会員126名、法人会員12社に増えました。これは昨年5月のハシナ首相
の訪日、同9月の安倍総理の訪バなどを通して日バ関係を「包括的パートナーシッ
プ関係」に引き上げるとの合意を踏まえ、両国関係は歴史的な段階に入ったとす
るバングラデシュに対する注目の高まりなどを反映したものでした。しかし、逆
に見るとこれだけ好条件に恵まれながら、特に法人会員の増加が伸び悩んでいる
との見方もあり得るところであり、会員の増加は、協会基盤強化のためにも第2年
度の主要目標の一つと認識しています。
個人会員、特に若い会員の増加は協会の活性化のためにも重要ですが、そのため
には協会の事業について若い会員向けのものを増やす、例えば学生向けにはバン
グラデシュ関係の就職関連情報の提供なども検討していますが、その他いかなる
方策が個人会員の増加に有効か検討し、次いでその実施のためのタスクフォース
を作って取り組んでいく所存です。
他方、法人会員、特に企業会員については、昨年、協会理事が手分けして様々の
企業に入会方アプローチした際、一様に訊ねられたのは、入会によりいかなるメ
リットがあるのかとの点でした。そこで協会としては、先ず企業関係者が納得で
きるような実績作りが先決であると考え、初年度はバングラデシュを包括的に理
解するうえで有用な講演会事業やメルマガ発行などに力を入れてきました。
第2年度におきましては、これら会員に対し、上記の分野に関し他では得られ難い
高度な情報の提供を目指して引き続き事業の拡充を図るとともに、これらの実績
を梃子として、バングラデシュに関心を持つ大企業、中小企業への入会の働きか
けを積極的に行う予定です。その際、知り合いの会員の皆様からの口利きがあり
ますと効果的な場合が多いと思われますので、会員候補のご紹介など是非ご協力
いただければ幸いです。
(2)事務局機能の整備と強化
 本協会は昨年発足に当たり、経費の余りかからない新しい形の協会を目指して、
事務所は借りずに主たる事務所の住所は協会関係者の自宅に置き、常勤の事務員
は雇用せず、関連の事務は各理事が分担するとの方針で臨むこととしました。し
かし、この結果として、人手不足も加わり、事務局体制の初期整備が立ち遅れ、
例えば、会計簿の資料間の数字の整合性確認に時間がかかったり、アドレスの未
整備により一部の会員に暫くの間メルマガをお届けできなかったり、領収書の発
行が遅れたり等の問題のため、一部会員に多大なご迷惑をおかけしてしまいまし
た。
 第2年度におきましては、このような事態を改善するため事務局体制の強化をも
う一つの主要目標とし、そのため、アルバイトの事務補助者を雇用するとともに、
専用のパソコンを購入し、全ての協会資料・データ、理事会報告書などの関係資
料をこのパソコンで集中管理し、関係文書やファイルの整備、協会事務処理規則、
会計基準などの細則作成を図るなど、事務局機能の整備と強化を図っていく所存
です。
3. 以上、協会といたしましては、バングラデシュのさらなる理解と日本バン
グラデシュ友好関係の促進を目指して理事一同努力していきたいと思っておりま
すので、引き続き会員の皆様のご支援とご鞭撻をお願い申し上げます。



■2)回想: 独立直後のダッカ大学「スタッフ・クォーター」に暮らして
                      奈良安紀子

 独立後まもなく、ダッカ大学学長から初代日本大使の小山田大使を通じて、新
設する「現代語学研究所」への日本人教員の派遣要請があり、これを受けて、国
際交流基金から今は亡き夫に適任者を探してほしい旨の依頼があった。しかし、
独立後間もない厳しい環境のためか希望者がなかった結果、夫が客員教授として
赴任することとになった。そのとき、一時帰国中の小山田大使から「絶対奥様も
来るんですよ。交流基金に家族同伴と伝えておきましたから」と言われ、私は、
日本にいるバングラデシュの方々は親しみ易いし、ご馳走になるバングラデシュ
料理もスウィーツも大変おいしいので、何とかなるかと思い「はい。」と即答し
た。
 1974年9月、一足先に行っていた夫の待つダッカ国際空港に、1歳9か月の息子
を連れて降り立った。その際、直行便がなく、バンコクで一泊しなくてはならな
かったことを心配した私の両親の配慮で、妹が2週間の予定で同行してくれた。車
窓から見ると、独立戦争の傷も癒えぬ間に、巨大なサイクロンの襲来により田畑
や家を失った人々が地方からダッカに押し寄せていて、多数の路上生活者の生活
ぶりに胸が痛んだ。
 ダッカについて間もなく、砂糖や洗剤、トイレットペーパーに至るまで生活用
品を持参したのは正解であったと実感した。大学のゲストハウスに滞在し「スタ
ッフ・クォーター」(教職員住宅)での生活に必要なものを買い整えていった。

 夫は、妹のためもあり、私たちをインドとネパールに連れて行ってくれ、カル
カッタでは留学中の臼田先生と奥様や谷口先生とお会いした。
 やがて、妹が「私には無理だわ。頑張って生活してね。」と言い残して帰国し
てから間もなく、私たちは「スタッフ・クォーター」に移り住んだ。1棟4階建
てで各階、2戸ずつあり、真ん中の階段を挟んで左側がA、右側がBという順番で、
我が家はNo 18D、即ち18棟2階の右側にあった。緑豊かな広いキャンパス内に各
ブロック10棟ずつに分かれていて、入り口には交代で24時間門番がいた。5ブロッ
クはあったと記憶している。台所にはガス台と水道の蛇口があり、バスルームに
は洋式水洗トイレと水のみが出るシャワーが1つだけあった。冷蔵庫はあったが洗
濯機はないので手洗いした。
夫は既に知人の紹介で、料理もできる青年を雇っていて、一般のご主人と同じよ
うにサーバントを連れて食料の買い出しに市場に通った。値段は交渉次第である
し、鶏肉が欲しければ生きたニワトリを買う必要があり、他の肉は吊るしてある
ところに行ってどの部位が欲しいか指し示さなければならなかった。市場では外
務省や文部省の方と偶然出会い、しばらく雑談することもよくあった。
大学の方は、或る日、初代所長のM先生が四苦八苦されており、わけを聞くと、翌
日の午前中に文部省に提出しなければならない書類の用意が間に合わないとのこ
とであった。夫がその半分を家に持ち帰りタイプを始めたものの、夜9時ごろ停電
になってしまい、ろうそくランプの明かりを頼りに深夜まで打ち続けて完成し、
翌朝所長室に持参した。ところが所長は夫の顔を見るなり、自分の住んでいる地
域では昨晩長時間停電だったため完成できなかったと、にこやかに告げた。文部
省には何とか提出期限を一日延ばしてもらい、夫が昼食をとりに帰宅した際に残
り半分を持ち帰り、夫が授業に戻った後、私が英文タイプを打ち、夕食後夫にバ
トンタッチして完成し、何とか間に合わせることができた。夫は愚痴ひとつ言う
ことなく、「自分たちの尺度が絶対だと思ってはいけない」と私に言っていた。

「スタッフ・クォーター」の人々とは次第に親しくなり、息子は毎日迎えが来て、
とくに18 棟の8人の子供がいるイスラム法の先生宅によく遊びに行っていた。私
は日中お茶に呼んだり呼ばれたりしたが、15棟には、ベンガル語を教えていたご
主人を、独立戦争中のある夜、突然やってきたパキスタン兵に連れて行かれ殺さ
れてしまった若い未亡人が、2人のお子さんと大学生の自分の弟と、大学の配慮で
住んでいた。未亡人は、パキスタンに情報を与えた人がいたから、夫を特定でき
たに違いないと涙ながらに語っていた。38棟にも同じようなケースで夫の旧知の
先生の遺族が住んでいた。17棟の副事務長は、ゲリラ戦に参加していた長女を
独立戦争後探しに行き連れ帰ったと言っていたが、その娘さんの淑やかなサリー
姿からは想像もつかなかった。
息子の2歳のお誕生日には、近所の子供達がタゴールの詩の暗唱や踊りを、女子
学生はハーモニアム持参でタゴールソングを披露してくれた。イスラム教の犠牲
祭前夜には、各家で買ってきた牛や羊やヤギの鳴き声が響き渡り、翌日早朝から
解体が始まり、カレーにしてふるまう。そして決まってシェマイというミルクで
甘く煮たスィーツが出た。解体人は男性二人一組で順番に回り、動物の皮を貰っ
ていく。
ベンガル言語文化に誇りを持ち、日常生活の全てがイスラム教の規範の上に成り
立っている人々の中での2年間であった。路上で、施しを受ける空き缶を前にお
いて歌を歌っている盲目の女性の肩に、ほとんど裸の2歳ぐらいの男の子が手を
乗せ、じっと立っている姿が今も脳裏に焼き付いている。幼な心に状況が分かっ
ているのだろうと感心した。あの子は今どうしているのだろう。
「スタッフ・クォーター」のあの生活は、むしろ恵まれた環境の中での2年間で
あったというべきだろう。



■3)バングラデシュの政治、経済関係の動きについて
○バングラデシュに対する無償資金協力
 「ダッカ及びラングプール気象レーダー整備計画」に関する書簡の交換
○コラム:ロヒンギャ「孤立無援」のなぜ
○甘く見て突っ込むと怪我するアジアインフラ市場
 日本企業は無法の荒野を切り開けるか?
○バングラデシュ人になれた!~飛び地に歓喜の渦~
○バングラデシュ、中所得国の仲間入り


■バングラデシュに対する無償資金協力
 「ダッカ及びラングプール気象レーダー整備計画」に関する書簡の交換
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_002240.html
 (外務省 2015年6月24日)
 
1 本24日(現地時間同日),バングラデシュ人民共和国の首都ダッカにおいて,
我が方松永健在バングラデシュ臨時代理大使と先方モハマド・メジバフッディン
財務省経済関係局上級次官(Mr. Mohammad Mejbahuddin, Senior Secretary, Eco
nomic Relations Division, Ministry of Finance, People's Republic of Bang
ladesh)との間で,28億8,100万円を限度とする無償資金協力「ダッカ及びラン
グプール気象レーダー整備計画」(The Project for Improvement of Meteorolo
gical Radar System in Dhaka and Rangpur)の供与に関する書簡の交換が行われ
ました。
2 この計画は,気象レーダーの更新による気象観測・予測能力の向上を通じ,災
害被害の低減に寄与するものです。また,この計画は,防災という地球規模課題
に対応するものであり,早急な対応が必要であるとともに,個人の生命や生活に
対する脅威への対応という人道上のニーズからも,高い実施意義が認められます。

3 今回の協力を通じて,バングラデシュにおいて,より正確で早期の警戒情報の
発信が可能となり,災害対策及び避難活動支援等が適時に開始され,サイクロン
等による気象災害や洪水災害による被害が軽減されることに加え,詳細な風向・
風速等の観測によって,航空機離発着の安全性が向上することが期待されます。

4 なお,この計画は,我が国の気候変動分野における途上国支援策の一環として
実施するものです。我が国としては,全ての国による公平かつ実効性のある国際
枠組みの構築に向け,バングラデシュと引き続き気候変動分野で連携していきま
す。

(参考)バングラデシュ人民共和国基礎データ
 バングラデシュ人民共和国は,面積約14.4万平方キロメートル(日本の約4割)
,人口約1億5,250万人(2013年,バングラデシュ統計局)であり,人口1人当た
りの国民総所得(GNI)は900米ドル(2013年,世界銀行)。



■コラム:ロヒンギャ「孤立無援」のなぜ
 http://jp.reuters.com/article/wtInvesting/idJPKBN0OZ00J20150619#1
 (ロイター通信 2015年 06月 19日)

ミャンマーは今、重大な人道的危機の真っただ中にある。同国に住む少数民族ロ
ヒンギャの多くが、迫害から逃れようと過密状態の船に乗り込んでいる(その多
くには過酷な運命が待っている)。
ロヒンギャの難民船が向かっているのは、彼らを助けることのほとんどできない
国々だ。率直に言えば、一部の国は彼らに救いの手を差し伸べることにも関心が
ない。
なぜ、こうした状況が生まれたのだろうか。

<ロヒンギャとは何者か>
ロヒンギャは、仏教徒が圧倒的多数を占めるミャンマーで暮らすイスラム系の少
数民族。彼らの敵対勢力の多くは、ロヒンギャが民族的に異なる集団だと認める
のを拒んでいる。ロヒンギャはベンガル人であり、ミャンマーにいるのは不法移
住の結果だというのが、同国当局などの主張だ。
一方、ロヒンギャ側は、ミャンマーのラカイン州に植民地時代以前から居住して
いると主張。中東研究所によると、ロヒンギャという言葉が最も古く登場するの
は1799年だという。

<なぜミャンマーから逃れるのか>
ロヒンギャは暴力に直面し、医療や教育や雇用へのアクセスといった基本的権利
が阻害されている。ミャンマー当局がロヒンギャを自国民として認めていないこ
とで、彼らは「アパルトヘイト的な状況」に置かれている。
しかし、それは今に始まったことではない。国際的非営利組織(NPO)「人権
のための医師団」の2013年の報告書によれば、1991年5月から1992
年3月までの間に、合計26万人以上のロヒンギャが国外に脱出。その背景には
「土地収奪や強制労働、レイプや拷問、即決処刑を含むビルマ軍による人権侵害」
があったという。

<なぜ今関心が高まっているのか>
四半世紀前から続く問題だが、ここ数年で彼らの置かれた状況は明らかに深刻化
している。
ミャンマーは2010年の総選挙を経て軍政から民政へと移行したが、それがイ
スラム教徒に対する迫害の深刻化にもつながった。ロイターの報道によると、政
府は、イスラム排斥を掲げる仏教徒の組織「969運動」の台頭を暗に認めてい
る。2012年以降、仏教徒との深刻な宗教対立によって約14万人のロヒンギャ
が同国北西部から逃れた。

<ロヒンギャへの憎悪の根源は何か>
現代のさまざまな対立と同様、ミャンマーの現在の混乱は、その根源を植民地時
代にたどることができる。
1826年に英国は、現在ミャンマー北西部となっている地域、ならびに現在ロ
ヒンギャの多くが住んでいる地域を植民地に併合した。当時の植民地政府の移民
法が緩かったことで、これらの地域にイスラム系ベンガル人が大量に流入。英国
は新たな植民地の管理者として南インドのチェティア(金融業者)を置いたこと
が、仏教徒であるビルマの農民の強制立ち退きにつながった。英エコノミスト誌
が指摘するように、それが遺産として長く残っている。
また中東研究所によれば、1948─1961年のイスラム分離主義勢力による
反乱失敗や、仏教徒の間に根強いイスラム教徒に対する恐怖心、1982年に施
行された国籍法も「ロヒンギャに対する差別を正当化させている」。

<近隣諸国はなぜ受け入れないのか>
ロヒンギャ難民の受け入れ先候補はいくつか考えられるが、彼らのために永住の
地を用意することは望んでいないか、もしくは不可能であるように見える。
マレーシアとインドネシアは、財政的に余裕がないというのを理由に、これまで
繰り返しロヒンギャの受け入れを拒んできた。マレーシア内務副大臣は最近、「
ここでは歓迎されないという正しいメッセージをわれわれは送らなくてはならな
い」と発言した。タイ海軍も同様に、ロヒンギャ難民を追い返している。
イスラム教徒が大多数を占めるバングラデシュは長い間、非公式にロヒンギャを
受け入れてきたが、最近は収容施設から出て行くよう命じるようになった。ただ、
バングラデシュが世界で最も人口密度の高い国の1つであり、政治も経済も不安
定であることを考えれば、それも驚きではない。

<なぜミャンマー政府は動かないのか>
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマもオバマ米大統領も、クリントン前米国
務長官も、なぜミャンマー政府は動かないのかと問うた。南アフリカのノーベル
平和賞受賞者ツツ元大主教は、ロヒンギャ迫害を「ゆっくりとしたジェノサイド
(集団殺害)」だと非難。米著名投資家ジョージ・ソロス氏は、迫害問題をナチ
スになぞらえた。
平たく言えば、圧倒的大多数の仏教徒に反対の姿勢を取ることは、危険な政治的
運動だとみなされるのだ。ミャンマー大統領府は以前、先鋭的な反ロヒンギャを
掲げる969運動を「平和のシンボル」だと呼ぶ声明を出した。ミャンマーの民
主化と改革のため長年戦ってきたノーベル平和賞受賞者のアウン・サン・スー・
チー氏でさえ、ロヒンギャ問題については沈黙を守っている。

*筆者はロイターのコラムニストです。本コラムは筆者の個人的見解に基づいて
書かれています。



■甘く見て突っ込むと怪我するアジアインフラ市場
 日本企業は無法の荒野を切り開けるか?
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44016
 (JBPress 姫田 小夏 2015年6月16日)

 <実は限定される日本企業にとっての「アジア市場」>
 バングラデシュは“アジアの最貧国”と言われているが、ここ数年は年率6%の
高い経済成長が続く。また、“出稼ぎ富裕層”の国外からの送金は、繊維産業に
次ぐ同国第2の外貨獲得源となっている。首都ダッカでは富裕層による高額品の需
要が高まり、もはや実態はアジアの貧しい国ではなくなりつつある。
 バングラデシュでは2013年、国会の総選挙が開催されたのだが、首都ダッカは
荒れに荒れた。「ハルタル」と呼ばれるゼネストによって交通も生産も麻痺状態
になり、日本からの経済視察団や訪問団も足止めを食らった。ハルタルを目の当
たりにした日本の財閥系企業の出張者は「事業にならない」と踵を返した。バン
グラデシュの成長性に関心を注いでいたものの、提出した報告書には「時期尚早」
の烙印を押した。
 翌年、選挙も終わったダッカを、今度は同業の中堅企業の社員が訪れた。その
社員が出した結論は、先の財閥系企業とは異なるものだった。同社は今、「世界
で最も住みにくい都市」と言われるダッカで、事業に乗り出すべく積極的に動き
出している。

 政情が不安定なのはバングラデシュに限らない。アジアビジネスには、すべか
らく政治リスクが存在する。それに対して「君子危うきに近寄らず」なのか、は
たまた「虎穴に入らずんば・・・」なのか。2社の行動は対照的だった。
 「日本企業はアラカン山脈を越えられるのか」は、専門家の間でたびたび発せ
られる問いである。東南アジアと南アジアは、バングラデシュとミャンマーの国
境を走るアラカン山脈で分けられる。日本企業がミャンマーに関心を持ってもそ
の隣国バングラデシュに関心を向けないのは、日本には馴染みのないアラブ文化
圏でもあるためだ。
 日本企業にとっての「アジア市場」とは、煎じ詰めれば、ごく近隣のいくつか
の国とマーケットに限定されている。

 <情報収集が勝負の分かれ目>
 アジアビジネスを進めるに当たり日本企業の大きな課題となるのが、現地情報
の収集だ。ビジネスが成功するか否かは情報量で決まると言っても過言ではない。

 日本企業の情報収集先は、現地の日本法人やジェトロ(日本貿易振興機構)、
領事館などが定番だ。さらに突っ込んだ情報収集となれば、現地人脈から得るこ
とになる。しかし、もちろん簡単にパイプを作ることはできない。関係機関を接
待し、しかるべき人脈への根回しなどが必要になる。
 「中国で情報収集したければ宴席を利用することだ」と言われる。だが、これ
を実行している日本人ビジネスマンは意外に少ない。かつて中国に駐在していた
外交官は自身の経験を踏まえ、「飯局を見極められるかだ」と語る。飯局、すな
わち会食は、中国では囲碁や将棋の対極に通じる一種の主戦場としてとらえられ
ている。
 「私たちには『無駄飯は三度食え』という鉄則がある。最初はひたすらよもや
ま話に徹し、四度目になって初めて話の核心を切り出す」

 中国のみならず、華僑が多いアジアでは情報収集のために宴席が最大限に利用
される。そして、宴席にはふんだんに金をかける。
 外交の場ではこの「飯局」を通し、誰が決定権を握るのか、その実力はどれほ
どのものかを見極めるという。ビジネスもまた同じだ。「飯局」は、相手が味方
になるのか敵になるのかを探り合うための重要な場だ。中国には「飯局が成功す
れば事は成就する」という諺すらある。
 ちなみにこの外交官は駐在中、現地に同化するような服装で市井を回り、市民
との対話を繰り返したという。中国という土地に慣れ親しみ、市民の生活に溶け
込むことも「息の長い情報戦」の一環なのである。

 <郷に従うと悲劇になることも>
 中国では「金」も情報を得るための重要な手段となる。すなわち贈収賄だ。中
国企業は賄賂をビジネスの潤滑油のごとく活用する。
 バングラデシュでも、社会構造に贈収賄がビルトインされている。贈収賄をい
とわないという意味で、中国企業とバングラデシュの企業は相性がいいと言って
よい。お互いにビジネススタイルが似ているためか、最近は中国と共同事業を進
める大手企業も少なくない。
 ダッカに本社を置く有力コングロマリットのトップは、日本企業との仕事のや
りにくさをこう漏らす。「日本企業はこの国の賄賂文化を知らない。賄賂なくし
てビジネスが進まないことを、どうして理解しようとしないのだ?」。
 「郷に入れば郷に従え」と言いたいのだろう。
 
 しかし、安易に「郷に従う」ことは命取りになる。贈収賄に手を染めた結果、
すべてを失った日本企業もある。
 ベトナムで高速道路の建設工事を業務受注するために、現地高官に約80万ドル
を贈賄した開発コンサルタンティング企業、パシフィック・コンサルタンツ・イ
ンターナショナル(PCI、事件後にコンサルティング事業から撤退)がそれだ。同
社は2009年に不正競争防止法違反で東京地裁より有罪判決が下された。この事件
は、いまだ「贈賄の悲劇」として日本企業の間で語り草になっている。

 <骨のあるビジネスマンはどこへ?>
 アジア市場といっても、日本企業が食い込めるのは極めて限定された国、案件
だというのが実情である。そして、それを担うことができるのもごく限られた一
部の人材であると言えるだろう。
 かつての商社をよく知る、ある日本人は、「1980年代までは骨のあるビジネス
マンがいたものだが」と語る。今や、海外に行きたがらない商社マンすら現れる
ようになったというのだ。政府が商社のお株を奪い、海外でのビジネス案件をま
とめようという時代になった。
 「これからはアジア市場」と簡単に言うが、そこはルールもなければ透明さも
ない世界だ。日本企業の快進撃を期待したいが、すっかり大人しく優等生になっ
てしまった今、現実は厳しいと言わざるをえない。



■バングラデシュ人になれた!~飛び地に歓喜の渦~
 http://www.el.tufs.ac.jp/media/html/pc/News20150620_145658.html
 (東京外国語大学-日本語で読む南アジアのメディア 2015年06月20日)

 2015年06月20日付 Prothom Alo紙

(6月7日付)バングラデシュとインドの間で、互いの領土内に存在する飛び地の
交換を定めた陸地国境協定の批准書が交わされたことで、飛び地の住民たちの間
には喜びの渦が巻き起こった。住民たちはバングラデシュの国旗を掲げ、「我々
はもう飛び地の人ではない、バングラデシュ人だ」と叫びながらパレードを行な
った。お祝いの菓子を配る人も多く見られた。
バングラデシュのシェーク・ハシナ首相とインドのナレンドラ・モディ首相臨席
のもと、両国は飛び地交換に関する陸地国境協定の批准書を交換した。昨日午後、
ダカの首相官邸で、バングラデシュのショヒドゥル・ホク外務次官とインドのス
ラマニアム・ジャエシャンカル外務次官が、批准書を取り交わした。バングラデ
シュ側にある飛び地の住民たちの様子を、プロトム・アロ紙の記者たちが取材し
た。
クリグラム県: 批准書が交換されると、クリグラム県内にある12の飛び地では、
人々が喜びに沸き立った。バングラデシュの国旗を手にして行進したり、菓子を
配ったりする姿が見られた。同県フルバリ地区内にあるダシヤル・チョラ飛び地
を記者が訪れたのは午後だった。各家にはバングラデシュの国旗が掲げられてい
た。子どもたちは大喜びで跳ね回っていた。フルバリに住むカレッジの女学生、
パプリさんは「二つの国の間で国境協定の文書が交わされたことで、私たちの閉
ざされた生活が終わりました。私たちはもう、主権国家・バングラデシュの国民
です」と声をはずませた。
ゴンガルハト女子中高等学校の9年生、アエシャ・シッディキさんは「もう国籍
などを偽って学校に通わなくてもよくなりました。妊娠した女性が、治療も受け
られず死ぬこともなくなります。私たちはバングラデシュの自由な国民だと、胸
を張って言えるようになりました」と語った。
ブルンガマリ郡パトルドゥビ区にあるシャヘブゴンジョ、ガオチュルカ、小ガオ
チュルカ、カラマティ飛び地でも同様の光景が見られた。「パキスタン時代から
今までずっとここで暮らしてきた。飛び地の住民たちはこれまで、さまざまな迫
害や苦しみに耐えてきたが、それももう終わりだ。わしらはバングラデシュ人に
なった」。シャヘブゴンジョ飛び地に住む95才のソブハン・ミヤは記者にそう
告げた。
インド・バングラデシュ飛び地交換調整委員会のモイヌル・ボク委員長はプロト
ム・アロ紙の取材に「政府は過去68年にわたって開発から取り残されてきた飛
び地の住民たちのために20億タカの予算措置をしたが、それではまだ足りない。
政府がこぞって飛び地地区の発展に取り組む必要がある」と強調した。
ポンチョゴル県: 県内にある36のインド領飛び地では、人々が歓喜の行進を行っ
た。ボダ郡のプティマリ飛び地の住民たちは朝、ポンチョゴルとダカを結ぶ幹線
道路をパレードした。パレードには女性や子どもたちも参加した。参加者たちは
「抑圧の日は終わった。これからは自由だ!」などの声をあげながら行進した。
パレードの後は飛び地の仮政庁の前で集会が開かれた。プティマリ飛び地住民委
員会のトスリム・ウッディン委員長は「私たちの長年にわたった苦しみを減らし
てくれたことで、シェーク・ハシナ、ナレンドラ・モディ両首相に感謝したい」
と話していた。
 パトグラム(ラルモニルハト県);県内のハティバンダ郡北ゴタマリ飛び地の
住民たちの顔も、喜びに溢れていた。インド領の135の1番ゴタマリ飛び地に住む
アシル・ウッディンというお年寄りは「飛び地の住民だということで、子どもた
ちを結婚させるのにとても苦労した。学校には住所を偽って通わせた。しかしも
う誰にも飛び地の住人だなんて言わせない」と語った。バングラデシュとインド
が作っている飛び地交換調整委員会の、バングラデシュ側のラルモニルハト県ア
ジジュル・イスラム委員長は記者の質問に答えてこう言った。「68年間に及ん
だ幽閉生活からやっと解放された。我々は今やバングラデシュの国民だ」。



■変わり行く新年の祝い方
 http://www.el.tufs.ac.jp/media/src/read.php?ID=411
 (東京外国語大学-日本語で読む南アジアのメディア 2015年05月07日)

2015年05月07日付 Prothom Alo紙

ベンガル人の新年の祝い方は変化していっているのだろうか?ベンガル暦のはじ
めの月、ボイシャクの最初の日、ポエラ・ボイシャクに行なわれる風習・儀式、
新しい出納棒を使い始めること、さらにボイシャキ・メラと呼ばれる特別の市や
特別の食べ物といったものが、ベンガル人が新しい年を迎えるときの付きものだ
った。しかし、時代の移り変わりとともに変化していったものも少なくない。さ
らに、そのように新年を祝う多くの伝統が失われていく一方で、新たにつけ加わ
ったものもまた多い。
ベンガルの新年の祝い方で一番大きく変わったものといえば、風習・儀式、食事、
そして服装である。こうした変化は都市部の地域のみならず、辺境の農村地域に
もその影響が及んでいる。

ショナリ銀行に勤めるサフィア・ロホマン氏は、幼年時代を村で過ごした。1970
年代には、ダカ大学の学生だった。さらに息子もダカ大学に入学したことから、
今の新年の祝い方もすぐ近くから見ることができた。
村も都市も合わせて3世代の新年の迎え方を見てきた彼女の感想は「ポエラ・ボイ
シャクの祝い方は変化してきて、多くのものが付け加わった一方で、また多くの
ものが失われてきた。しかし一番大きなことは、この現代の祝い方には、どこか
しらにも心に訴えかけてくるものがない」といったものだ。

ボイシャクの食事と服装
新年に欠かせないものと言えば、食事と服装だ。10~20年前までは、ションデシュ
(牛乳と砂糖を原料とする、日本の千歳飴のような甘くて固めのお菓子)や、グル
(ナツメヤシやサトウキビからとれた砂糖を煮詰めて固めたもの)、ピタ・プリ(小
麦をこねたもちのようなもの)、コイ(ポップコーンのようなお菓子)、ドイと呼ば
れるヨーグルトなどが新年につきものの食べ物だった。しかし、今の世代にとっ
ては、パンタ・イリシュ(ご飯をひと晩水に浸けておいたパンタにベンガルで最
も人気の高い川魚・イリシュを添えた食事)がボイシャクの代表的な料理のよう
になっている。そして、このパンタ・イリシュへのこだわりは都市部で顕著なよ
うだ。
新年の服装と言えば多くの人がドゥティ・パンジャビ(主にヒンドゥー教徒の男
性が着用する長い布でできた腰巻きドゥティまたはドーティーと、パンジャビま
たはパンジャービーと呼ばれる裾の長めな上着の組み合わせ)の名を挙げる。し
かし今ではボイシャクには、白と赤を使ったパンジャビやサリー、サルワルカミ
ーズ(女性の服でサルワルと呼ばれるゆったりしたズボン、カミーズというシャ
ツの組み合わせ)を身につけることが多い。こうした服の売り上げの伸びが目だ
つ。ボイシャクの服飾市場は今何十億タカにもなっている。

すたれ行く新帳簿の行事
かつては年の初めの日に新しい帳簿を使い始める開く習慣があって、その行事が
ほとんどお祭りのようにして祝われていた。特に村や地方都市では盛んに行なわ
れていた。出納帳を新しくする儀式の何日も前から、商人達はお客さんやご贔屓
さんに招待状を送ったものだった。この行事の背景には、前の年の未回収金を取
りたてるということもあった。しかしそれよりも交際や社交的な交流の場として
の意義のほうが大きかった。
だが時代が下るとともにこの新帳簿使い始めの行事を行なうことが少なくなって
来た。ダカの商業地区、カロワン・バジャル、モウロビ・バジャル、イスラムプ
ルで商売を営む人たちに尋ねてみると、今はダカ旧市街の一部の店や会社でこの
行事が行なわれているにすぎないことが分かった。
モウロビ・バジャルで商売を営むロメシュチョンドロ・ビッシャシュさんは今で
もこの行事を行なっているという。「小さい頃から父親や伯父が出納帳を新しく
する行事を行なうのを見てきた。伝統を守るために、今も私たのまわりでは出納
帳を新しくする儀式が良く行なわれている。お客さんもそれほど集まるわけでは
ないし実入りが良いということもない」といいつつも、この行事をすると心だ安
らぐのですよ、とビッシャシュさんは語った。

ボイシャキの料理、服装、風習や儀式と同じく、ボイシャクのお祭りにも変化の
影響が及んでいる。ボイシャキ・メラと呼ばれる、この時期に立つ市に出かけて
買い物することが新年の行事の一つだった。しかしいまではボイシャキ・メラは
以前のように盛んではない。
近年、首都の新年いえば、誰もがロムナ公園のボトムル(「ベンガル菩提樹の根
本」を意味する場所)での音楽学校・チャヤノトの歌手たちによる歌と、ダカ大
学芸術学部の学生たちによる、張りぼてのトラなどを掲げた「歓喜の大行進」と
呼ばれる練り歩きだ。しかし現在は新年の祭りはこの2つに限られない。ダッカ
大学構内の各所に巨大な舞台がしつらえられ、コンサートが行われる。一日中繰
り広げられるこうした催しの大半はバンド演奏だ。しかしこうしたものはベンガ
ルの長い伝統の一部ではないといって多くの人がこのような催しに異論を唱えて
いるが、若い世代の多くはこれを喜んで受け入れている。

ベンガル新年の迎え方の変化について、ダカ大学のシラジュルイスラム・チョウ
ドリ名誉教授は「ベンガル暦の月として、・あるいは農事暦としてのボイシャク
月の意義は失われている。新年のお祭りは自発性を失い、そこにバラバラの要素
が入ってきている。またかつて新年のお祭りの要素の一つだったボイシャク市は
今は姿を消した」と言う。教授はさらに「以前はボイシャク月にちなんで買い物
をすることが人々にとって楽しみであったが、今はそこに人工的なものが入り込
んでいる、それは資本主義の産物だ」と語った。



■バングラデシュ、中所得国の仲間入り
 http://www.el.tufs.ac.jp/media/src/read.php?ID=431
 (東京外国語大学-日本語で読む南アジアのメディア 2015年07月05日)

バングラデシュ、中所得国の仲間入り
2015年07月05日付 Prothom Alo紙

(7月2日付)バングラデシュは低所得国から脱却し、中所得国となった。これは
昨日(7月1日)世界銀行が発表したもの。
世銀は中所得国をさらに低中所得国と高中所得国の2つに分類している。バングラ
デシュは今後、低中所得国と呼ばれるようになる。

世界銀行は毎年7月1日に、国民ひとりあたりの年収をもとに、各国を4つのグルー
プに分類したリストの公式発表を行っている。個人あたりの年収が1,045ドル以下
の国は低所得国とされる。バングラデシュは1971年の独立以来ずっと、この低所
得国グループに属していた。

民間のシンクタンク・政策対話センター(CPD)のモスタフィズル・ロホマン常任理
事はプロトム・アロ紙とのインタビューで「(中所得国入りには)我が国の一貫
した経済成長が反映され、それが認められたと言うことだ。国民が成し遂げた大
きな成果であり、記念すべき一里塚と言える。これにより心理的のみならず、実
質的に得られるものが大きい。それと同時に新たな課題も出てくる」と語った。


中所得国とは: 国民ひとりあたりの年収が1,046ドルから12,736ドルまでの国を
中所得国と呼ぶ。さらにそのなかでも年収が4,125ドルまでの国は低中所得国、そ
れ以上の場合は高中所得国に分類される。12,737ドル以上は高所得国ということ
になる。
世銀は「アトラス・メソッド」と呼ばれる独自の方法で各国の個人あたる収入を
算出している。この方法では、それぞれの国の通貨で表された国民総所得(GNII)
が米ドルに換算される。その際、国際的なインフレ率と為替レートの変動値を調
整するため、過去3年間の為替レートの平均値が用いられる。
バングラデシュ統計局(BBS)の統計では、バングラデシュの2014-15会計年度に
おけるバングラデシュの個人あたり年収は1,314ドルとされている。世銀の算出方
式で1,045ドルを超えているので、今回発表されたリストでバングラデシュは中所
得国の仲間入りができたわけだ。政府の策定した10年計画では、2021年までに中
所得国となることがうたわれていた。それが目標より早く達成されたことになる。

世銀が今回発表した一覧表では、バングラデシュ、ケニア、ミャンマー、タジキ
スタンが新たに中所得国に加わった。同じSAARC・南アジア地域協力連合加盟国の
インドとパキスタンもこのカテゴリーに属している。最新のリストでは、低所得
国は31、低中所得国は51、高中所得国は53、そして高所得究国の数は80となって
いる。

これからの課題: CPDのモスタフィズル・ロホマン博士は、総合的な見地から中
所得国入りは、世界におけるバングラデシュの地位をさらに高めることになると
考えている。そしてその結果、国際的な金融市場から融資を調達しやすくなる、
すなわち貸し手側からして、バングラデシュは比較的リスクの少ない国と見なさ
れる、と言う。しかし一方で、国際的な開発援助機関から融資を受ける際の条件
が少々厳しくなることも考えられる。そうした状況に今から備えなければならな
い、とモスタフィズル・ロホマン博士は語っている。
低中所得国になったといっても、バングラデシュが後発開発途上国(LDC)であるこ
とには変わりがない。そのため、LDCであることの便宜もこれまでと同様受けるこ
とができる。LDCからの脱却のためには①財政の脆弱性②人材開発③国民一人当た
り総所得に関する一定の指標をクリアする必要がある。これについてモスタフィ
ズル・ロホマン博士は「財政の脆弱性の指標を満たすことはできたが、あとの2点
に関してはまだクリアできないままだ」と言う。
中所得という名の罠:所得が増えること即発展とは言えない。これまでにも収入
を増やして中所得国入りしたものの、「中所得国の罠」に陥った国は少なくない。
中南米諸国は長年その中でもがいている。中国やロシアといった国でさえ同じ状
況だ。もっとも顕著な例としてはブラジルと南アフリカがあげられる。単に所得
を増やすことのみに心を砕き、インフラ、教育を含む人材開発、輸出の分野での
競争力向上に目を向けなかった国々がこうした「中所得国の罠」に落ちることに
なる。


■4)事務連絡

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勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会
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