日本バングラデシュ協会に参加の皆様へ

日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(第14号)  2015年9月14日

■目次
1)日バ協会メルマガ14号会長メッセージ
『阿波踊りとバングラデシュ舞踊団のコラボレーション」 会長:堀口松城
2)『シェーク・ムジブル・ロホマン回想録出版に寄せて』  理事:渡辺一弘
3)『会員寄稿』 清水敬之様
4)『会員のみなさまへ』
第四回国際ベンガル学会日本委員会事務局 副事務局長 丹羽京子
5)『バングラデシュの政治、経済関係の動きについて』
6)『事務連絡』

■1)日バ協会メルマガ14号会長メッセージ
「阿波踊りとバングラデシュ舞踊団のコラボレーション」 会長:堀口松城

8月13,14両日、バングラデシュの総勢16名の舞踊団が徳島市の阿波踊りに参加し
バングラデシュの舞踊を紹介するとともに、阿波踊りのグループの中に「バング
ラデシュ連」として参加し見事な阿波踊りを披露しました。遠いバングラデシュ
からやってきた若者たちの真剣な踊りを見て、私だけではなく多くの観客が感動
し、両国の文化的交流の深まりを実感することができました。
この「バングラデシュ阿波踊りプロジェクト」は、昨年の瀬戸内国際芸術祭が佐
渡島前バングラデシュ大使の発意の下、多くの日バ両国の関係者の協力を得て、
高松港を含む14か所で、バングラデシュの画家、工芸職人、歌手など総勢98名に
よるパフォーマンスが披露され、延べ107万人の来場者を集めるなど大きな成功を
収めたことから、鳴門市に縫製工場を持ちバングラデシュにも同工場を持つ平石
公宣社長が提案し、これを佐渡島大使がサポートし、さらに地元の多数の方々の
支援を得て実現したものです。
当協会の法人会員でもある株式会社丸久の平石社長がこの企画を考えられたのは、
バングラデシュには多くの優れたものがあるのに、日本におけるバングラデシュ
のイメージはむしろネガティブなのが多いので、これを少しでも改善したいとの
思いからであった由です。そのプロジェクト実現のため、この1年間、ご家族、
会社の社員などを総動員され、実行委員会を立上げ、阿波踊り実行委員会との打
ち合わせ、地元企業などからの資金集め、バングラデシュ関係者の事前打ち合わ
せ、地元新聞社などへの広報の協力要請などなど精力的なご努力を重ねられまし
た。
その結果でしょうか、徳島市内の目抜き通りのホテルの屋上から長さ20メートル
の「バングラデシュようこそ徳島へ」の大きな垂れ幕がかかり、バングラデシュ
舞踊団の団員が行く先々で、街を往く人々から「バングラデシュの人達ね」と注
目を浴びるなど、両国の友好ムードも大いに高まりました。
この心尽くしの「おもてなし」は日本全国から四国に集まるお遍路さんに対する
接待と同じものであると伺い、なるほどと思いました。前述のバングラデシュ舞
踊団の団員のひたむきな踊りも、このような関係者の懸命の努力や地元の人々の
「おもてなし」に対する精一杯の感謝の表われであったと思います。
バングラデシュ舞踊について、私が十数年前にバングラデシュで見た舞踊とは質
的にも大いにレベルアップしており、舞踊団長のカビルル・ラタンさんにその旨
伝えたら、この10年間自分たちは自ら改善の努力もし、また、多くの国に招かれ、
その国々の舞踊から学んでもきたので、その様に言っていただき嬉しいと述べて
いました。この舞踊団が、今回の阿波踊りとのコラボを通じて何かを学ぶことが
あれば、両国の文化分野の協力と相互理解はさらに進み、「包括的パートナーシ
ップ」の深化に寄与していくことが期待される次第です。

■『シェーク・ムジブル・ロホマン回想録出版に寄せて』  理事:渡辺一弘

この8月、明石書店より「バングラデシュ建国の父シェーク・ムジブル・ロホマ
ン回想録」が出版された。バングラデシュ独立の指導者として知られ、ボンゴボ
ンドゥ(ベンガルの友)の愛称で今も親しまれるこの政治家が自ら記した半生記
の日本語訳である。その翻訳を担当した者として、日本語版出版の経緯や、その
関連として起きた出来事について書き留めておこうと思う。

Asamapta Atmajibani(オショマプト・アットジボニ)というベンガル語の原題
を持つこの手記が、バングラデシュで出版されたのは2012年である。タイトルは
「書きかけの半生記」を意味する。文字通り、シェーク・ムジブル・ロホマン自
身が自らの半生について記したものだ。同じ年、同書の英語訳がThe Unfinished
Memoirsのタイトルで出され、続いてパキスタンでウルドゥー語訳も出版された。
そのため日本語訳は公式な翻訳書としては3種類目、南アジア以外では初というこ
とになる。
「バングラデシュ建国の父シェーク・ムジブル・ロホマン回想録」(以下「回
想録」と略)にも掲載されているバングラデシュのシェーク・ハシナ首相による
序文には、同書の出版に至るまでの経緯が詳しく記述されているのだが、要約す
ると行方不明になっていた手記が、書かれてから35年ほどもの長い年月を経て発
見され、それをもとに一冊の本が編まれたということだ。言うまでもなく、シェ
ーク・ハシナ首相はボンゴボンドゥの長女である。
そのシェーク・ハシナ首相が昨年(2014年)5月、公賓として日本を訪れた。日
本語版「回想録」出版の動きはその少し前から始まっていた。イニシアティブを
取ったのはマスド・ビン・モメン駐日バングラデシュ大使だ。2012年の着任以来、
大使は日本における広報活動を進めるにあたり、日本語使用の必要性を痛感する
ことになった。さらにまた、バングラデシュでは死去後40年たった今も多くの人
から尊敬され、親しまれているボンゴボンドゥだが、現代の日本ではさほど知ら
れていないという現実もあった。そこで大使はバングラデシュ事情に詳しい大橋
正明・聖心女子大教授および村山真弓・ジェトロ・アジア経済研究所主任研究員
に相談し、日本語版「回想録」出版への動きが始まった。大橋教授が石井昭男・
明石書店社長(現会長)と折衝し、出版の内諾が得られた。明石書店は「バング
ラデシュを知るための60章」をはじめ、バングラデシュおよびアジア関連の書籍
を数多く手がけている出版社と知られている。私(渡辺)に翻訳をしてみないか
と声がかかったので、すぐに応諾の返事をした。当初は共訳との話もあったが、
文体の統一などの問題が考えられるため、ひとりでやらせていただくことにした。

シェーク・ハシナ首相が来日し、その折に日本語訳出版への正式な同意が得ら
れた。日本語版を出すにあたっては、シェーク・ムジブル・ロホマンと日本のつ
ながりについての説明と、語句や事項に関する注を付けることが必要だと考えた
ので、首相にお目にかかった機会にそのことを伝えて承諾をいただくことができ
た。本文だけで280ページを超すベンガル語原書の翻訳作業が始まった。
シェーク・ムジブル・ロホマンは1920年に生まれ、1975年8月15日未明、自宅に
いるところを一部の軍人によって急襲され、家族らとともに命を落とした。それ
以前、1971年のバングラデシュ独立は日本でも大きな注目を集め、その指導者と
して「ムジブル・ラーマン首相」の名はマスメディアにも頻繁に登場した。当時
怠惰な大学生だった私さえその名を知っているほどだったが、それが忘れられな
いものとなったのは、まさに1975年8月15日だった。東京外国語大学のアジア・ア
フリカ言語文化研究所主催でその夏、ベンガル語の速習コースが開催されており、
そこに参加して初めてベンガル語を学んでいたのだった。その日の午後、遅れて
教室に現れた主任教官の奈良毅教授はしばらく口をつぐんだままでいた。なんと
言おうか迷っているような感じだった。それから口を開き、「ムジブル・ラーマ
ンが死にましたね」とおっしゃった。
翻訳を進めているとき、ふとした折にあの日の情景が頭をよぎった。いつの間
にか40年近くたったんだなという思いがしきりにした。ボンゴボンドゥの歩んで
きた道をベンガル語原文の中にたどりながら、いつしか自分とベンガル語やベン
ガルのさまざまな事柄との関わりを回想することがあった。例えば本の中に綴ら
れた、民謡歌手アッバスウッディンの歌声に聞きほれながら川を舟でいくシーン
などは、自分自身が古いレコードで同じ歌手の歌を聞いたときの記憶と重なった。

「回想録」の原文のベンガル語は決して難しいものではない。平易ではあるが
断定的で力強く、その文章はシェーク・ムジブル・ロホマンの演説を連想させる。
インターネットのさまざまなサイトでその演説を聞くことが可能なので、興味の
ある方は試みていただきたい。翻訳用のテキストとしてベンガル語を選んだのは、
そのほうが英語から訳すより原文のニュアンスを伝えやすいと考えたからである。
日本語の表現とベンガル語の表現は極めて似通ったところがあり、そのために単
に意味ではなく、それぞれの言語で綴られた思いを的確に表現するには、英語を
介するより、直接に2つの言葉で置き換えることが有効だと思う。さらにこれまで
ばらばらなきらいがあったベンガル語の固有名詞の表記を、この際できる限り原
音に近づけようと考えた。日本である程度人口に膾炙しているとも思われるシェ
イク・ムジブル・ラーマンを、あえてシェーク・ムジブル・ロホマンという表記
にしたのにはそういうわけがある。
一方語句の意味が分かったとしても、背景を知らなければ訳せない事柄がある。
そういうものにぶつかって翻訳が進捗しないこともままあったが、そのようなと
きはベンガル人の友人が力になってくれた。辞書でも資料でも探しきれない事項
に関する疑問が、友人に訪ねることで氷解することもしばしばあった。
注釈なども含め、翻訳作業にはのべ10か月ほどかかった。明石書店が600ページ
を超す本にしてくれた。出来上がった本を持って、8月初めダカに行った。シェー
ク・ハシナ首相に日本語版回想録を直接手渡すことができるよう、モメン大使が
アレンジして下さったのだった。8月2日午前、アブル・ハサン・マハムド・アリ
外相、モメン駐日大使など列席の中、首相官邸の「バラの間」で首相と30分にわ
たって懇談することができた。本を首相はにこやかに受け取ってくださった。そ
して、父からいつも日本がいかに素晴らしい国かということを聞かされていた、
という話をされた。ぜひ日本に行くようにとも言われたそうだ。「回想記」には
1955年までの出来事しか書かれておらず、ボンゴボンドゥのその後についてぜひ
知りたいと思っていると伝えたところ、最近新たに手記が発見され、それも近々
本として刊行されると教えていただくことができた。懇談が終わって部屋を退出
するとき、首相が「回想録」をいかにもいとおしそうに胸に抱きしめておられた
ことが強く印象に残った。父に寄せる娘の深い愛情を感じた。
首相との懇談後、外務省で再び外相および外務次官に挨拶し、さらに国会議事
堂を訪ねてシリン・シャルミン・チョウドゥリ国会議長にも本を手渡した。国営
バングラデシュ・テレビジョンのインタビュー番組にモメン大使とともに出演し、
出版のいきさつや翻訳者としての思いなどについて話をした。ファンタスティッ
クな一日となった。翌日はかなりの数の新聞に、首相との懇談の記事が写真付き
で載った。
ボンゴボンドゥの命日にあたる8月15日には、東京のバングラデシュ大使館で例
年のごとく追悼集会が行われ、今年はその一環として回想録の出版記念行事が実
施された。行事終了後、たくさんのバングラデシュの人たちと一緒に写真を撮っ
てくれといわれ、面映ゆい気持だった。
現代のバングラデシュの政治状況の中、ボンゴボンドゥ・シェーク・ムジブル
・ロホマンに対する評価は様々なものがある。しかしイギリスおよびパキスタン
による支配からベンガル人による独立運動を推進し、指導した人物としてのボン
ゴボンドゥの評価は、現代政治のコンテクストとは切り離して行なう必要がある
と私は考える。そして、その人物がどんな人々と出会い、どんな経験を積んでど
のような考えを抱くにいたったかを「回想録」は伝えてくれる。私自身バングラ
デシュ独立の指導者として以外あまり知ることのなかったボンゴボンドゥと、翻
訳作業を通じて向き合うことができ、それで十分な満足を感じている。だからこ
の著作を読んだ日本の読者がもし、ボンゴボンドゥ自身やバングラデシュという
国への関心を持つ、あるいは高めるようなことがあれば、それは訳者として望外
の幸せということになる。

■『会員寄稿』 清水敬之様

ダッカの第一印象
JICAのODAの専門家としてバングラデシュに行くことが決まったとき、私のこの国
についての知識は、洪水が多い、人口が多くて混雑している、衛生状態が悪いと
いう程度のものであった。
2012年3月、初めてダッカ空港に降り立ったときから、入国審査場の無秩序に近い
長い列に始まり、迎えの車に出合うまでの人ごみとの戦い、市内のいたるところ
での道路のひどい混雑という強烈な歓迎を受け、大変なところに来てしまったと
いうのが第一印象であった。また、信じられない位の高温多湿の季節があるかと
思えば、乾期には細かい砂塵が舞い、あらゆる場所に埃が積もるという厳しさ。
会社に勤めていた頃は、仕事で約40ヶ国に出張もし、シンガポールやマレーシア
に駐在した経験があったが、それまでの経験と比べて、今回は厳しいものになり
そうという印象であった。

パウダースノ-ならぬパウダーダスト
バングラデシュは、地形的に低地が多く、非常に細かい砂が多い。その上、一部
の道路を除いて未舗装で、乾期には風が吹いたり、車が走ったりすると埃のすご
さは並々ならない。 歩く人はマスクや首に巻いた布で自衛する。道路だけでは
なく、アパートの部屋の中までいつの間にか細かい砂埃が入り込み、毎日、ほこ
りをこまめに掃除しないと生活空間がザラザラになる。出張や一時帰国で1週間も
留守にするときには、家具や什器に覆いを被せる必要があり、帰宅したら先ずザ
ラザラの床にモップ掛けが第一の仕事となる。幸い、呼吸器障害も起こさず任期
を終えることができたが、毎日の入念なうがいは欠かせないものであった。

品質よりも安けりゃいいんだ
パソコンのための電源コードを買いに行ったときのことである。プラグ差込口が
5個あるタップを買ったところ、電気が通じるのは2ヶ所しかなかった。これは不
良品だと突き返したら、「2ヶ所も使えるじゃないか。」と店員になだめられた。
こうした家電品は、すべて輸入品であり、見かけはちゃんとしているので始末が
悪い。
バングラデシュは、こうした安物家電の氾濫地帯であり、ようやく家電に手が届
く層が生まれてきたが、まずは品質よりも見かけとコストで満足する需要層が大
半である。「日本製品は、良いけど高い。」というコメントが多く、見かけと安
さというこの国の市場の要求にあうような品は、「日本のメーカーには作れない
!」。こうした需要層への対応が、日本の家電製品がアジア新興国で苦戦してい
る原因である。

吹っ飛ぶフードや水道の蛇口
家電については、アパートに入居して、初めて台所の換気扇を作動させたところ、
換気扇のフードが吹っ飛んだのには驚いた。見かけはちゃんとしていても、換気
扇のサイズとフードに遊びがないためであった。
水道のコックをひねると蛇口部分が勢いよく飛んできて危なくけがをするところ
だったし、掛け時計が、我々が「留守にしている間は止まっていて、帰宅すると
やにわに動き出す。」という不思議も経験した。
設備の施工やメンテナンスでも問題ばかり。たとえば、新築のアパートに入居し
たのに、各部屋それぞれのエアコンが、順に漏水を起こし、その都度工事人を呼
び寄せる始末であった。私は、家内が一緒に来てくれていたので、そうした場合
に業者との交渉や始末を一切任せていたが、度重なるトラブルで、家内は業者と
「やあやあ」の関係になり、すっかり仲良しになってしまった。だからと言って
新規のトラブルが起こらないわけではなかったが。

朝はキツツキに起こされる
住居は、ダッカ市内のグルシャン地区という中心地帯であったが、アパートの周
りには街路樹が多く、そのためいろいろな鳥たちが住みついていた。多いのは、
カラス、鳩、スズメといった定番であるが、時にインコや白鷺なども見かけられ
た。
そうした中で、私の寝室の窓辺に、キツツキが訪れて、毎朝、窓のサッシをたた
くようになった。 平和な鳥のイメージをぶち壊す大きな音で、とても寝ていられ
ない。しかし、ガラス、アルミサッシとコンクリートの壁面を突いて、虫が出て
くると思うのだろうか。いまだに解けない謎である。

驚き、呆れて始まった2年余のダッカでの生活は、今では良い思い出となってお
り、バングラデシュ国にも人々にも懐かしさと親しみばかりが湧いてくる。滞在
期間中だけでも、新道路の開通やファストフーズ店が次々とオープンするなど、
変化が速かった。赴任当初には手に入らなかった日本食材も入手できるようにな
り、駐在員の生活も次第に容易になってきていた。その時からすでに1年がたって
いるので、更に変化が進んでいるだろう。近く現地を訪問する計画があり、最新
のダッカとの再会を楽しみにしている。

■会員のみなさまへ 第四回国際ベンガル学会日本委員会事務局
副事務局長 丹羽京子

今年の12月12日(土)13日(日)に東京外国語大学にて国際ベンガル学会が開か
れます。もともとこの学会は、バングラデシュおよびインド、西ベンガル州の両
ベンガルをあわせて活発な学術交流を行うべく設立されたもので、ベンガルをフ
ィールドとするあらゆる分野の研究者が世界中から参加しております。国際ベン
ガル学会は、設立当初より東京外国語大学名誉教授であった奈良毅先生が会長を
務められ、その関係で今回東京外国語大学で開催されることになったものですが、
第四回を迎える今回、はじめてインド亜大陸の外で開催されるものとして内外か
ら注目されております。
学会では基調講演や記念講演のほかに、さまざまな分野におけるセッションが計
画されております。現段階で明らかなものだけでも、宗教学、人類学、言語学、
文学、歴史学、開発学、経済学など多岐にわたっており、バングラデシュに限っ
てみても、政治と宗教の問題や、教育の問題、少数民族についてなど、みなさま
がたが少なからず関心を持たれるであろうテーマが多々含まれております。また、
両日とも夕方からカルチュラル・プログラムが予定されており、こちらではベン
ガルの歌や踊りなどをお楽しみいただけます。さらには展示による発表もなされ
ることになっています。
現在学会では一般参加も募っており、参加費5000円で基本的に両日すべてのプロ
グラムにご参加いただけることとなっておりますので、バングラデシュに関心を
お持ちのみなさまにもぜひ足をお運びいただきたく思っております。また、残念
ながら日程的に参加はできないものの、趣旨に賛同していただける方からはサポ
ート(個人による寄付)も受け付けております。詳しくは下記のホームページで
ご覧いただけます。みなさまの積極的なご参加をお待ちしております。

□第四回国際ベンガル学会日本委員会
http://www.tufs.ac.jp/ts2/society/Bengal/

■5)『バングラデシュの政治、経済関係の動きについて』

□プロトム・アロ紙の記事日本語で
http://www.el.tufs.ac.jp/media/html/pc/News20150826_115221.html
(2015年08月25日付 Prothom Alo紙)

(8月25日)プロトム・アロ紙に掲載される記事、特集、論説などを、日本の読者
が直接日本語で読めることになった。プロトム・アロ紙と日本のマーフィーシス
テムズ社は日曜日(8月23日)、ダカのカロワン・バジャルのプロトム・アロ紙本
社で、この新事業に関する契約を締結した。
マーフィーシステムズの藤重佳代子社長とプロトム・アロ紙のモティウル・ロ
ホマン編集長兼発行人がこの契約に署名した。記事は、マーフィーシステムズの
サイト・BDD NEWS(バングラデシュデジタルニュース)に掲載される。契約では
BDD NEWSが、プロトム・アロ紙の各種記事を翻訳し、公開することになっている。

□マレーシア反対、バングラデシュ人の労働者
http://www.nb-shinbun.co.jp/5160/
(日本物流新聞 2015年9月)

マレーシア政府はこのほど、今後3年でバングラデシュから労働者150万人を受
け入れるとしたが、地場産業からは猛反対の狼煙。「政府は労働市場に対し、も
っと現実的になるべきだ」との声が挙がっているのは、国内企業の成長が今後、
鈍化することが予想されるため。「大量の外国人より、マレーシア人の雇用確保
が先決」いうわけだが、政府筋には「いずれ労働集約型から知識集約型への産業
シフトが必要」との目論見もある。

□レモングラスとユーカリの新しいアロマ「She Happy Soap」
http://top.tsite.jp/news/interior/o/25364068/
(T-SITEニュース 2015年9月4日)

南アジアの支援活動を43年にわたり取り組む国際協力NPO、(特活) シャプラニー
ル=市民による海外協力の会から、バングラデシュとネパールで生産されている
フェアトレードのアーユルヴェーダ・ソープ「She with Shapla Neer」(シー・ウ
ィズ・シャプラニール) の新商品「She Happy Soap(シー・ハッピー・ソープ)」
が発表されます。

作る人は仕事が得られ、使う人は社会貢献しながらお肌も元気になる。双方が幸
せになれる石けん「She Happy Soap」は、今回、レモングラスにユーカリをブレ
ンドした新しいアロマとなっています。レモングラスの甘く爽やかな香りにユー
カリの持つ独特な香りがアクセントとなり、気持ちをリラックスさせてくれます。
レモングラスは南アジア地方で古くから愛用されており、お肌の調子を整えると
言われています。これからの秋の夜長のリラックスアイテムとしてもオススメで
す。

商品は、全国のセレクトショップやフェアトレードショップ、またシャプラニー
ルのネットショップ「Craftlink」(http://www.craftlink.jp/)などで展開され
ます。

□京都ジョブパーク:日本の就業支援学ぶ バングラデシュ大臣ら視察/京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20150814ddlk26040300000c.html
(毎日新聞 2015年08月14日)

日本の行政サービスに学ぼうとバングラデシュの政府関係者らが12日、府な
どが運営する総合就業支援拠点「京都ジョブパーク」(京都市南区)を視察に訪
れた。就職活動中の学生から育児中の母親、高齢者、障害者らさまざまな立場の
求職者を支援する施設の理念や運営方法などの解説に熱心に耳を傾け、じっくり
と見学した。

バングラデシュ政府は2011年、日本政府に対し行政サービス改善に関する
技術協力を要請。それを受け、国際協力機構(JICA)がバングラデシュ政府
部局で業務改善を行うプロジェクトを実施している。視察はその一環で、京都ジョ
ブパークの取り組みに関心を持った人事省のイスマット・アラ・サディック担当
大臣ら10人が来日した。

京都ジョブパークの担当者は、国が運営するハローワークと連携を進め、年間
約60%の就職を達成するなど取り組みの成果を強調。その後、保育所併設の母
親向けの「マザーズジョブカフェ」や障害者向けの「はあとふるコーナー」など
を見学した。サディック担当大臣は特に障害者雇用の取り組みに強く関心を寄せ
バングラデシュも障害者が社会の一員として生活できるように重視している。
まだまだ日本には及ばないが、視察したことを生かしたい」と意欲を見せていた。
【野口由紀】

□注目!バングラデシュの600万の中小企業
http://www.jica.go.jp/bangladesh/bangland/report/802.html
(Bangland 2015月8月18日)

中小企業支援の新しい潮流

しかし、こうした状況に今、変化の兆しが見えてきている。政府の積極的な中小
企業支援策が形を見せ始め、今まで中小企業への融資に消極的であった市中の銀
行も、徐々に門戸を開き始めた。これにはJICAをはじめ、世界銀行などの資金的
支援という後押しもある。

代表的なのはJICAの「中小企業振興金融セクター事業」である。2011年5月に総額
50億円の円借款が行われ、中央銀行を通じて、市中銀行が低利で中小企業に対し
て融資を行う仕組みを作った。現在、46の参加金融機関によってこのスキームが
利用されている。

政府と中央銀行は、更に中小企業への融資を促進する政策を進め、急速な勢いで
中有小企業への融資額・件数が増えている。例えばバングラデシュ最大のリース
会社であるIDLCは、5年前にはわずか29億タカ(約45億円)であった中小企業向けの
融資残高を210億タカ(約325億円)にまで増やしているという。また先日、IDLCは
女性の起業家に対する特別プログラムを中央銀行の支援を受けて開発した。500万
タカ(約770万円)を上限に10%という低金利(通常17%-20%)で融資する制度で、250
万タカまでは無担保で貸出し、低コストで生命・損害保険を組み合わせるサービ
スも提供するそうだ。

バングラデシュの中小企業という新たな市場

こうした中小企業ファイナンス成長の理由は、単に政策の後押しというだけでは
なく、銀行側の事情もある。バングラデシュでは多くの市中銀行による競争が激
化してきており、大きい収益を生み出す中小企業融資は魅力的なのだ。また、特
に女性起業家の不良債権比率が低いことが知られ、女性のエンパワーメントの動
きと相俟って、注目を集めているのだ。(前述のIDLCの場合、中小企業向け融資の
不良債権比率が2.25%であるのに対し、女性起業家の場合は0.07%に過ぎない)。

バングラデシュの中小企業へのファイナンスの増加は、日本の企業にもビジネス
の機会を増やす。今まで控えていた設備投資が増え、安いが性能の悪い設備では
なく、日本の性能の良い設備への需要も増えてくる可能性がある。現在の円安も
追い風になるであろう。

バングラデシュの600万社の中小企業という新しい市場に注目だ

□<挑戦!国際ビジネス>徳島県 丸久株式会社
“メード・イン・ジャパン”よりも“日本の技術で”作る服
(ジェトロセンサー2015年9月号)

1985年のプラザ合意→円高の進展→海外生産開始→中国工場設立→チャイナリス
ク顕在化→中国からの撤退→生産主力はバングラデシュにこんな日本企業の典型
的な海外展開の道を歩んできたのが、アパレルメーカーの丸久だ。「カットソー
メーカー」を自認する同社は、業界をリードする存在であり、バングラデシュ工
場は、日系企業では最大規模。編みたてから染色~プリント~縫製まで、衣料品
の一貫工場へと成長を遂げ、従業員数は2,300人までになった。
自社で一貫生産制を整え、「日本とバングラデシュの技術を集結して作った製品
を世界中の人々に着てもらいたい」と奮闘する平石公宣社長に話を聞いた。

商品力・生産力・企画力を兼備
渦潮で有名な鳴門は、古くは綿の産地であり、縫製業の盛んな地域でもある。丸
久の歴史は、この地から始まった。
同社は先代社長の時代に肌着の製造を開始した。
1970年代半ばには、時代のニーズを読み取り、子ども服の生産へとかじを切って
いった。イオン、イトーヨーカドー、しまむらなどへのサプライヤーとしてシェ
アを確立。企画から生産までを手掛けるODM(Original Design Manufacturing)メ
ーカーとして、業界での高い認知度と評価を獲得してきた。
日本の大半のアパレルメーカーは、自社で製造を行わず、生産委託や買い付けを
通じて、製品を調達する。
その意味で、業態的には卸業・小売業に分類も可能だ。
だが丸久は違う。多面的に店舗を展開していくのではなく、その反対で、ものづ
くりの方向にかじをとる。
なぜか?その背後には、”ものづくりをしっかりと行っていかないと、この業界で
は生き残ることができない”(平石社長)との経営哲学があった。同社は、単に取引
先ブランドの生産をするだけのOEM(相手先ブランドによる生産)とは異なり、企画
から生産までを手掛けるODMで事業を展開している。よって最大の強みは、顧客に
対して逆提案を仕掛ける力があることだ。商品力・生産力・企画力を全て兼ね備
えた自己完結型メーカーなのだ。
同社がビジネスを行う上で重視しているのは”マーケティング”だ。今、どこで、
何が売れているのか。
どこでその製品が作られているのか、徹底的に市場調査を行う。「日本中の洋服
売り場を見て回ります。自分の目で見て、生の情報を収集します。特に人が集ま
り、モノが動くゴールデンウィーク、お盆、クリスマスなどの繁忙期は、必ず売
り場に出向くようにしています。定点観測を通じて市場の変化を見極めること、
それがわが社で最も重視していることなのです」と平石社長は語る。もちろん今
でも社長自ら定点観測を続けるが、最新のファッション市場動向を探るために訪
れる牛は欧米だ(

海外進出は時代の呼吸に合わせて

同社の海外進出の歴史は、日本企業の「海外展開の典型事例」といえるかもしれ
ない。
海外進出の契機は、85年のプラザ合意による急激な円高だ。それまでは、日本で
作って日本で売ることが当たり前だった。だが円高で、海外で作られた安価な衣
料品が、国内に大量に流入してくるようになった。
当然、国内市場における日本製品の競争力は低下した。
そうなると国内だけで生産を続けることに限界を感じるようになり、必然的に海
外生産に活路を求めるようになった。90年には、国内の大手取引先から共同進出
の誘いを受け、初の海外生産拠点をバンコクに設立。
子ども服・婦人服の生産を開始した。90年代半ばになると、円高はさらに進み、
1ドル80円台に。そこで95年、海外生産体制を強化するために中国・山東省に現地
工場を設立した。しかし10年が経過した2005年ごろから、人件費や材料費の高騰、
労働者不足などのチャイナリスクが顕在化。そのため、チャイナ・プラス・ワン
として次なる一手を検討し始める。
同社が目を向けた先はバングラデシュだった。既に縫製業が集積しており、ミシ
ンなどの機械操作に慣れた手先が器用な人材は豊富にいた。しかも労働力は安価
であった。さらに社長の背中を押したものがあった。
それが、米国、EU市場での店頭調査から得られた生の情報だ。「アパレル店を、
地道に1軒1軒見て回りました。そして、1着1着、手に取って縫製の質を確認して
いきました。その際、製品タグを確認し、どこで作られているのか、その原産国
を調べたのです。価格、質の両面で優れていたのがバングラデシュのものでした。
実際に店舗でもよく売れていました」。平石社長は当時をそう振り返る。
しかし、当時バングラデシュに進出している日系企業はまだ少なく、情報を収集
するにも一筋縄ではいかなかったようだ。だが、その時、バングラデシュで20年
来縫製工場を営む日本人経営者との出会いがあった。それがきっかけとなり、進
出のスピードは加速した。進出先を輸出加工区(EPZ=Export Processing Zone)と
決めた。その理由は、基礎インフラが整備され、関税や法人税などの税制面で、
優遇措置をはじめとした投資インセンティブが与えられるからだ。
しかしながら、認可を受けるまでの手続きは煩雑を極めた。そこでまず、人脈・
ネットワークを構築し、その上で、何度も粘り強く交渉を重ねた。やっとのこと
で09年に、アダムジーEPZで生産拠点の設立認可が下りた。09年の第1期工場設立
以来、工場の拡張・生産体制の増強を続けており、14年12月に第4期の増設を終え
た。現在では2,300人の従業員のもと、1カ月に約80万枚の衣類を生産している。

バングラデシュでは、欧米向けの少品種大量生産型工場が一般的ではあるが、同
社は多品種少ロットの対応が可能だ。なぜなら、自社で生地の生産から製品化ま
での一貫生産体制を整えており、生地を機働的に調達できるためだ。その点で他
社との差別化を図ることができている。
バングラデシュに注力する一方で、中国工場においては人件費の上昇が続き、採
算ベースでの見通しが立たなくなった。そのため、14年には中国から撤退した。

また・中国市場には10年から小売りとしても進出していたが、小売店の設立ラッ
シュにより市場が飽和状態となったことを見越し、今後は、欧米の消費者をター
ゲットに生産していくことを決断した。

豊富な人材

「地方のアパレルメーカー」と聞いて思い浮かぶのはどんな絵だろうか。大量生
産が行われる工場で働く地元採用のパート労働者、あるいは1枚1枚こだわり抜い
た手作りの製品を作る職人、それが典型的な絵ではないだろうか。しかし丸久に
は、そんな典型的なイメージは当てはまらない。実に多用な人材を確保し、こだ
わりの製品を大量生産している。同社が本社を構えるのは地方都市。これは、必
ずしも人材採用に有利な立地ではない。だが、アパレル業界を志望する県外学生
の就職希望者も多く、従業員の約半数は県外出身者だという。何が優秀な人材を
引きつけるのか?平石社長は語る。
「グローバルなフィールドを舞台に、自らが主体となって、材料の調達から製品
の最終工程まで携わることができる点が従業員にとってやりがいとなっているよ
うです。海外で活躍したいと考えている方からの応募も非常に多いです」と。実
際に英語のみならずタイ語、中国語、ベンガル語を話せる人材も多数在籍してお
り、地方のアパレルメーカーとしては類を見ない豊富な人材がそろっている。

日本の技術力を生かして

同社の今後の海外展開計画を聞くと、「製造においてはバングラデシュを中核に
据え、高級品はタイ、特価品は中国・ベトナムへ生産委託する分業体制を取り、
広く製品ラインアップをそろえていく方針です」との答えが返ってきた。
バングラデシュには、これまで同社の生産工場しかなかったが、製造に加え販売
力の強化も図るべく、15年6月に販売拠点をダッカに設立した。同地を海外マーケ
ットの営業拠点と位置付け、欧米市場を重点ターゲットとして海外販売を推し進
めていく考えだ。欧米のアパレル展示会へも積極的に出展するべく既に準備を始
めているバングラデシュにはた綿の扱いに長けるEUの技術が基礎にある。
それは、生地を多様な風合いに仕上げる技術であり、その技術においては日本を
上回っているのかもしれない。
しかし日本の方が優れている技術もある。例えば合成繊維や機能素材などの分野
だ。それらをバングラデシュに持ち込み、双方の技術を結集して、より質の高い
製品を作りたいという思いがある。
「時代に逆行するように映るかもしれないが、日本で生産工場を新たに設立し、
日本にバングラデシュエ場のワーカーを招聘し、共同でものづくりを行う構想が
あります。人件費や材料費のコストが割高となるため・Made in Japanとして生産
できる量は限られます。
ですが・日本の技術で作られた”Made by Japanese techniques”の製品を海外展開
していくこと、それを欧米の人たちに着てもらうことが、今現在の会社としての
目標です」。平石社長は最後に熱く語ってくれた。
時代の荒波にのまれることなく、確実な成長を遂げてきた同社の挑戦はこれから
も続く。 (須貝智也/ジェトロ徳島事務所)

□国際人材育成機構 バングラデシュから実習生 建設向け軸に育成
(日刊工業新聞 2015年08月20日)

外国人技能実習生の受け入れ団体である国際人材育成機構(アイム・ジャパン、東
京都中央区、柳澤共榮会長、03・5645・5621)は、バングラデシュからの実習生受
け入れを始める。現地での訓練を経て、2016年2月をめどに来日、日本国内企業で
就労する。
バングラデシュではインフラ需要が高まっており、建設業向けの人材を中心に育
成する。20年の東京オリンピック・パラリンピックで懸念される日本の建設業界
の人手不足への貢献も期待できる。
アイム・ジャパンでは、今月末にバングラデシュで技能実習生の募集を始める。
試験で選ばれた実習生は、まず現地の職業訓練校で日本語や建設業に必要な基礎
技術などを約4カ月かけて身につける。日本から建築士などの専門家を派遣して、
指導に当たる。
第1陣として20人を受け入れる計画。その後も毎月実習生を受け入れる方針だ。
同時並行で実習生を受け入れる国内のゼネコンなどを探す。日本での就労期間は
3年。
ベトナムとインドネシア、タイからの受け入れ実績によると、帰国後は地元の日
系企業に就職したり、自ら起業したりするケースが多い。バングラデシュには清
水建設などがすでに進出している。
バングラデシュは日本の約4割の面積で、人口は1億5250万人(13年)。経済成長率
は6%超で、さらなる経済発展が期待されている。
道路や橋などのインフラ整備が最重要課題の一つであり、アイム・ジャパンは専
門人材の育成で同国の産業振興に貢献したい考えだ。

□ツーリズムEXPOジャパンへの参加について
http://www.bdembassy.jp/news/detail/news_id/276872776519
(在京バングラデシュ大使館 2015年9月24日~27日)

バングラデシュ政府観光局がツーリズムEXPOジャパンへ出店します。
場所:A-025 Bangladesh Tourism Board
A-025 Bangladesh Parjatan Corporation

○ツーリズムEXPOジャパン
http://t-expo.jp/

阿波踊りで活躍したバングラデシュのマスコット バントラ君も来る予定です。
https://goo.gl/fVoEag

■6)『事務連絡』

本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ
勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会
http://www.japan-bangladesh.org/