日本バングラデシュ協会に参加の皆様へ

日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(第15号)  2015年10月14日

■目次
1)日バ協会メルマガ15号会長メッセージ
  『バングラデシュ観光産業発展への期待』 会長:堀口松城
2)『私のバングラデシュとの出会いとそこでの学び』  理事:大橋正明
3)『バングラデシュの政治、経済関係の動きについて』
4)『事務連絡』

■1)日バ協会メルマガ15号会長メッセージ
 「バングラデシュ観光産業発展への期待」 会長:堀口松城

9月25日から27日まで東京ビッグサイトにおいて、日本観光協会と日本旅行業協会
主催による今年で2年目となる「世界最大級旅の祭典:ツーリズムEXPOジャパン」
が開催され、世界140の国および地域から1,100を超す団体企業が参加しました。
バングラデシュからも民間空港観光省、政府観光局とバングラデシュの7つの旅行
業者が共同でブースを設けていました。
私は3年間のバングラデシュ勤務中、専ら週末を利用してバングラデシュ各地を訪
ね、豊富な観光資源がありながら十分活用されていないことを見て、海外投資家
商工会議所での講演などいろいろな機会に、観光産業発展の重要性を訴えました。
特に、観光は雇用機会創出、外貨獲得などの自助努力に立った貧困削減の上で大
きな役割を果たすこと、また、多くの外国人が観光客としてこの国を訪れ、その
発展ぶり、自然や歴史的建造物の豊かさなどを自分の目で確かめ、帰国後周囲の
人々に伝えていくことがバングラデシュのネガティブなイメージを改善していく
うえで最も有効な方法のひとつであることを述べてきました。
それだけに、その後のバングラデシュにおける観光産業発展のための政府及び民
間の努力ぶりを見る良い機会であると楽しみに行ってみました。ブースでは、観
光局や各旅行業者が作成したシレットなど各観光地ごとの小冊子や、バングラデ
シュの多数の観光地を一冊で紹介する冊子などが数多く並べられていましたが、
いずれも私がかつてバングラデシュでよく見た冊子などに比べ、写真の質、構図、
種類さらに観光地の説明など大いに改善されていることを感じました。
今回新たに見られた観光案内書としては、「考古学的サイトと記念建造物」とし
て、マハスタン、パハルプール、モエナマティ、カンタージ・テンプル、ラルバ
ーグ、シュナルガオンなどを一冊にした冊子や、3泊4日コース一覧的に、シュン
ドルボン、クワカタ、サン・マーチン、コックスバザール、シレットなどそれぞ
れ目的地を限定した冊子、また、シュンドルボンについて潮の満ち干時刻、季節
ごとの気候、生息する野生動物や植物の詳しい写真入りの説明、交通手段、滞在
先、持っていくべきものなどをすべて網羅した旅行ガイドなどが見受けられまし
た。
また、私が勤務していたころは外国人旅行者には自由な訪問が規制されていたチ
ッタゴン丘陵地帯の景色や現地住民の生活・慣習をとり上げた冊子もあり、
或いはパドマ河、メグナ河、シタラクヤ河など河ごとのクルーズ・コースを集め
た冊子や、さらに各地方ごとのお祭り(例えば、全国的なものでは、4月14日のボ
ヘラ・ボイシェク、2月13日のボヘラ・ファルグン、3月5日のドル・ジャトリ&ホ
リ、バゲルハットのデュブラ・ラシュ・メラ)などを網羅した冊子を含め、多種
多様なバングラデシュ観光の紹介ぶりに、関係者の工夫のあとをよく見ることが
できました。
今月17,18両日はダッカで仏教観光の振興について日本、中国、ミャンマーなど
12カ国の関係者が集まって知恵を絞る由であり、さらなる観光者を呼び寄せるた
めの関係者の一層の努力を期待したいところです。

■2)『私のバングラデシュとの出会いとそこでの学び』  副会長:大橋正明

1.バングラデシュとの出会い
初めてバングラデシュを訪れたのは、今から38年前の1978年2月頃だった。大学卒
業を目前にした長期休暇中で、当時シャプラニール(当時はヘルプ・バングラデシュ
・コミティー=HBCという名称)の現地駐在員だった大学の同期生や、私が通う
大学近くにある早稲田奉仕園の屋根裏部屋に引っ越してきていたシャプラニール
の東京事務所の連中から「いずれシャプラニールの現地駐在員にならないか」と
何度か誘われていたことが、この訪問の理由である。
私はそのもっと前の1974年に一年間大学を休学して、インドのマハトマ・ガンデ
ィーが始めた社会改革運動であるサルボダヤ運動のブッダガヤにある拠点「サマ
ンバヤ・アーシュラム」が運営する「不可触民」の子供たちの全寮制学校に半年
間滞在した。そしてそれ以来、私がインドの強烈な魅力に取付かれていた。それ
でも6年かけて大学を卒業した際には、政府系特殊法人に就職を決めていたので、
シャプラニールの誘いにすぐ乗るつもりはなかった。それでもいずれ駐在員にな
るかもしれないという気持ちがあったので、訪ねてみたのである。
今から38年前のダッカには、路上を走る自動車は数えるほどしかなかった。ダッ
カ市のコラバガン(バナナ畑)というダンモンディーに隣接した地区にあったシャ
プラニールの事務所兼駐在員住居の平屋の建物の屋上に上ると、1975年に赤軍が
ハイジャックした日航機が駐機した旧ダッカ空港の滑走路を望むことができた。
今のショナルガオンホテル当たりからファームゲートに至るまでの両側に、二階
建ての建物はほとんどなかったからだ。それまでに2~3度訪問していたインドに比
べると、全体にのんびりとしていた。さらに駐在員は毎朝朝食に目玉焼きを食べ
ていたこと、バブルチと呼ばれる使用人が家事全般をやってくれていたことから、
シャプラニールの駐在員は自分のそれまでのインドでの生活より数段上の暮らし
をしていると受け止めた。
この短い滞在の期間中に、ダッカからフォリデプールまでオンボロバスで往復し
たこと、アリチャのガートから1時間余りのフェリーの旅を満喫したこと、そして
フォリデプールで同級生と質素な食堂に入り新鮮な魚カレーを堪能したことなど
は忘れがたい。恐らくこの時得たバングラデシュの好印象が、私をその後バング
ラデシュに誘ったのだろう。
バングラデシュから戻った私は大学を卒業して、4月から予定通り東京で堅気のサ
ラリーマン生活を始めた。しかしインドへの思いは絶ち難く、それまで二年半通
っていた三鷹にあるアジア・アフリカ語学院のマントリー先生のご自宅に週1回同
級生数人とお邪魔して、ヒンディー語を習い続けることにした。そしてその先生
から推薦を頂き、翌79年8月からインド政府の奨学生として、デリーにあるヒンデ
ィー語中央学院に一年間ヒンディー語留学することになった。
 ヒンディー語学習よりインド各地への旅行に熱中したこの一年間のデリー留学
は瞬く間に過ぎ去り、私は再び仕事を必要とした。それで私は、シャプラニール
の申し出を受けたのである。そもそも当時の私は、今日国際協力や開発協力を志
す真面目な若い人たちと違って、NGOや貧困や農村開発などについて、僅かな理解
しか持ち合わせていなかった。それでもこの申し出をうけたのは、自分の好きな
インド亜大陸の一角で暮らし続けることができるから、という自己中心的な動機
に過ぎなかった。
ただ「申し出」とは聞こえが良いが、当時のシャプラニールは駐在員の報酬がな
かっただけではなく、現地への赴任航空運賃も自己負担であった。幸いにもイン
ド奨学金で帰国の航空券が出たので、私はその航空券の帰路を変更して、80年6月
に酷暑のデリーから雨降るダッカに赴いた。これが、私の最初のバングデシュで
の長期滞在の始まりである。

2.バングラデシュでの学び
 今日私が日本のNGO界を少しはリードする立場に立ち、かつ大学で開発を講じる
ことができるのは、バングラデシュで多くを学ぶことが出来たからだ。私がバン
グラデシュで学んだたくさんのことの一角を、ここで披露しよう。
シャプラニールの駐在員になってすぐの12月の寒い日、欧米系NGOと「今日はダッ
カの路上生活者に毛布を配ろう」という話になった。オールドダッカの市場で中
古毛布を数百枚購入しようとしていた当時28歳の私を呼び止めたのは、私より10
歳上のバングラデシュでは著名なソシアルワーカーのラーマン氏だった。彼は私
に、「購入するならなるべく汚れてすり切れた毛布にするように」と助言した。

与えるならなるべく良い毛布のほうが良い、と単純に思い込んでいた私は大いに
面食らったが、その理由を教えて貰って、自分の無知を恥じた。ホームレスやス
トリートチルドレンが質の良い暖かい毛布を貰っても、地元のゴロツキや給与の
少ない警官がそれをすぐに取り上げてしまうからだ。社会開発の専門用語で言え
ば、路上生活者たちは自分の所有権を主張するエンパワメントが出来ていないの
だ。だから適度にみすぼらしい毛布のほうが適切、ということになる。
この先輩には、赤十字の駐在員として91年のサイクロン大災害後の食糧配布に従
事していた際にも、貴重な教えを頂いた。私は被災直後から海岸部の被災地で救
援活動に従事していたのだが、その食糧配布の列に、貧困層が排除され比較的裕
福な人たちが並ぶことに頭を痛めていた。直接注意すると角が立つし、そもそも
多数の対象者にはそれが出来ない。これを知ったラーマン氏は、「配布するコメ
に予めダール豆を混ぜておくと、富裕層が援助食糧を受け取らなくなる」と教え
てくれた。ダール豆入りのコメは、貧困層だけが好むキチュリーという混ぜご飯
にしかならないからだ。
こうしたことは援助の現場では常識的かつ極めて重要なのだが、開発学のテキス
トや赤十字の訓練で学ぶことはほとんどなかった。援助をはたで見ていると、相
手に感謝される美しい仕事かもしれないが、現場では常に周辺からの不満感やジ
ェラシー、反発、あるいは業者や役人などによる不正などに直面している。これ
らをうまく切り抜ける術を、ラーマン氏から何度も教わった。
ラーマン氏の親友で、シャプラニールも長らく指導してもらったGUPというNGOの
設立者である故アタウル氏からは、人格面で多くの薫陶を受けた。詳しくは書け
ないが、自分と意見や考え方が異なる人、弱い立場に置かれた人たちなどにどの
ように接するのかを、彼は身をもって何度も示してくれた。このような素晴らし
い人物とバングラデシュで何年かに渡って親交を持てても、不出来な私は彼の足
元にも及ばないが、それでも実践可能な高い目標を確認することが出来た。

3.まとめ
繰り返しなるが、私がもしバングラデシュに出会わなかったら、そしてシャプラ
ニールと赤十字の駐在員として通算5年間余りバングラデシュに滞在し、さらに4
0年近く毎年数回現地に通って、様々な人と交わることがなかったら、今日の私は
存在しない。最貧、かつ問題山済みの国として紹介されることの多いバングラデ
シュだが、私にとってはなくてはならない恩師である。今後も、まだまだバング
ラデシュから学びたいと願っている。

■3)『バングラデシュの政治、経済関係の動きについて』

□バングラデシュのロングプルで日本人殺害
 http://www.el.tufs.ac.jp/media/html/pc/News20151003_233836.html
 (日本語で読む南アジアのメディア 2015年10月03日付 Prothom Alo紙)

イタリア人が殺害されたのに続き、今度は日本人が銃撃され、死亡した。被害者
はホシ・クニオさんで、今日(10月3日土曜日)午前、ロングプル市から約5キロ
離れたマヒゴンジョに近いアルタリ村でこの事件は起きた。アルタリ村はロング
プル県カウニア郡シャライ区の村のひとつ。警察はこの事件に関し4人からロング
プル警察署で事情を聴いている。

ホシ・クニオさんは125952という番号の入ったパスポートを所持していた。パス
ポートによればホシさんは今年8月8日、インドからラールモニハトのブルマリを
経由し、陸路でバングラデシュに入国している。ビザは来年4月13日まで有効とな
っている。ホシさんはロングプル市ムンシパラ地区にあるザカリア・バラという
人物の家に部屋を借りて住んでいた。
ホシさんの遺体は現在ロングプル医科大学病院の霊安室に安置されている。同病
院のA.S.M.ボルコトゥッラ院長は「病院に運ばれてきたとき、ホシさんはすでに
死亡していた。特別チームを結成して解剖を行う予定だ」と語った。
記者は被害者を下宿させていたA.K.M.ザカリア・バラさんと病院で話をすること
ができた。ザカリアさんによると、ホシさんはアルタリ村で2エーカー以上の土地
を使って牛用のNPR草の栽培を行なうプロジェクトを手がけていたという。今日も
いつもと同様朝仕事にいたホシさんの事件のことを知り、ザカリアさんは病院に
駆け付けた。ザカリアさん自身長い期間日本で暮らしたことがあり、その関係で
ホシさんはザカリアさん宅に住むことになった。ホシさんはひとり暮らしだった
という。

ホシさんは毎朝、ムンナフ・ホセンのリキシャに乗って仕事場に出かけていた。
今朝も同様だった。ムンナフさんは事情聴取のため警察に出向く際、記者たちに
対してマヒゴンジョからハラガーチに向かう道の途中、ロータリー・スクールの
前で東の方向に下っていく未舗装の道を100ヤードほど行ったところで事件が起き
たと語った。午前10時頃と思われる時刻、反対方向から顔を黒い布で隠した2人の
青年がリキシャの行く手をふさぎ、ホシさんに向かって発砲した後、舗装道路の
方に逃げ去ったという。2人が逃げていった舗装道路にはヘルメットをかぶった別
の青年がエンジンをかけたオートバイにまたがった状態で待機していた。逃げた
2人の青年はそのバイクに乗ってハラガーチの方向に逃走した。青年たちはシャツ
にジーンズを着ていたという。
ムンナフさんがさらに語ったところによると、事件の現場から300ヤード以内には
茶店が何件かと小規模な市場があり、銃声と悲鳴を聞きつけて市場関係者と近隣
の住民が駆けつけ、ホシさんをオートリクシャに乗せてまずマヒゴンジョのシャ
トマタ地区へ運び、そこからさらにピックアップ・バンでロングプル医科大学病
院に搬送した。病院到着は11時10分だったという。
警察発表によると銃弾はホシさんの胸、右腕の肘および首の右側に当たっていた。

ホシさんが攻撃された地点のすぐそばにある家のムラド・ホセンさんも警察に事
情を聴かれている。
ホシさんはアルタリ村に住むシャー・アロムさんの土地を借りてプロジェクトを
行なっていた。シャー・アロムさんは「ホシさんはとても朗らかな人で、皆と親
しかった。敵などいるはずがない」と語った。
ロングプル警察捜査局の指揮に当たっているアブドゥス・サラム・ロングプル署
副署長は午後2時半ごろ事件現場で記者たちに対し、「十分な捜査が済むまでは何
も言えないが、警察は現場付近を固めている。この事件は国際的で微妙な面があ
る。あらゆる技術を使って捜査を行なう所存だ」と語った。
この事件について事情を聴くため、警察はザカリア、ムンアフ、ムラド各氏のほ
か、ヒラという人物を警察に呼んでいる。ホシさんの農地に隣接してヒラさんの
魚のいけすがあり、ヒラさんはホシさんとよく一緒にいるところが目撃されてい
る。警察は2人の間に何か仕事上の関係があったかを調べたいとしている。
今週月曜日には首都ダカのグルシャン2番区の90番道路を歩いていた、50歳のイ
タリア人男性が銃撃され、死亡する事件が起きている。この男性はオランダに本
拠のあるNGO・ISSO協会の「食の安全と企業利益」計画の責任者をつとめていた。
目撃者の証言によると、ふたりの青年が発砲した後、中年男性が運転するオート
バイに乗って逃走している。

□日・バングラデシュ首脳が会談
 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201509/2015092900421&g=pol
 (時事通信 2015年9月29日)

 【ニューヨーク時事】安倍晋三首相は28日、バングラデシュのハシナ首相と
国連本部で会談し、安全保障関連法の成立を説明した上で、「積極的平和主義の
立場から、地域と世界の平和と安全、繁栄に一層寄与していきたい」との立場を
伝えた。ハシナ首相は関連法について「すばらしいものだ。成立を祝い、努力を
高く評価する」と述べた。
 安倍首相はまた、日本の国連安保理常任理事国入りに向けて「緊密に連携して
いきたい」と呼び掛けた。ハシナ首相は「安保理改革への期待は高く、日本がし
かるべき役割を果たすことを希望する」と応じた。

□習近平主席がバングラデシュ首相と会談
 http://j.people.com.cn/n/2015/0928/c94474-8956367.html
 (人民網日本語版 2015年09月28日)

 習近平国家主席は26日、バングラデシュのハシナ首相とニューヨークで会談し
た。
 習主席は「中国側はバングラデシュを南アジアおよびインド洋地域の重要な協
力パートナーと見なしており、バングラデシュ側とハイレベル交流を継続し、貿
易・生産能力・エネルギー開発・インフラ整備など重点分野の協力を拡大するこ
とを望んでいる。双方は重大な国際・地域問題で意思疎通と調整を継続する必要
がある。バングラデシュの気候変動対策にできる限りの支援をしたい」と表明し
た。
 ハシナ首相は「バングラデシュの経済・社会発展への中国側の長年の支援に感
謝する。経済・貿易、金融、インフラ整備、人的・文化分野で中国側との交流や
協力を強化し、バングラデシュ・中国・インド・ミャンマー経済回廊の枠組での
協力に積極的に参加したい」と表明した。

□宍倉社長宍倉弘哲さん――老舗の本業、大胆変革、スーパーに個性、地縁駆使
 (ちばThePeople)
 (日本経済新聞 2015年09月02日)

 創業1788年で県内を代表する老舗企業、宍倉(千葉県大多喜町)を率い
る宍倉弘哲社長(55)。かつては履物や荒物を扱っていたが、今では主にスー
パーやコンビニエンスストアなどを経営し、グループ全体の売上高は約120
億円。最近はバングラデシュで和牛レストランの運営を始めるなど、時代の変
化に応じて常に経営の鮮度を保ち続けるしなやかさが身上だ。
 海水浴場の連なる九十九里町、多くのサーファーが闊歩(かっぽ)する一宮
町――。そんな風景が続く千葉県東部、太平洋岸にスーパーセンターレオ岬店
(いすみ市)はある。あじやいわしの一夜干し、近くの牧場で作ったオリジナ
ルのチーズ。パート従業員などが中心となって独自に仕入れた地元の名品が棚
を飾る。
 「地元の名品をそろえるのは大手スーパーとの違いを打ち出すため」と宍倉
社長。地元企業ならではの仕入れルートを生かし、今年中に同様の取り組みを
全6店のスーパーに広げるほか、取扱商品数を現在比5倍の50点に引き上げ
るのが目標だ。町内の運動会で撮影した写真を店内に飾るなどして地縁を生か
し、画一的な店作りはしない。
 独自の店作りで存在感を見せる宍倉社長だが、社会人としての第一歩は、イ
ベントや福利厚生を受託する企業のサラリーマンだった。バブル期に大手企業
を担当。テレビ局から芸能人が使うローラースケートや衣装を借りては新入社
員歓迎式典の余興向けに貸し出すなどしていた。
 実家に戻り、父親が営む食品卸を継ぐことになったが、「将来性に不安を感じ
た」として、新しい事業を模索した。その際に思い出したのは、サラリーマン
時代に開店に立ち会った静岡県内のホームセンター(HC)だ。初日にもかか
わらず駐車場は満杯。「広大な店舗に可能性を感じた」と振り返る。
 早速、HCの経営を始めたが、今度は「売り場面積で四分の一程度の食品が、
売上高の過半数を占めていた」。スーパーに勝機があるとみるや、途中から業態
を大胆に変更。スーパーを主力事業に据え、HCからは撤退した。
 200年以上続く同社で脈々と受け継がれた経営哲学は常に新しさを求めて
変化すること。宍倉社長もそれを実践してきた。次世代につなげるために宍倉
社長が目下取り組むのは、バングラデシュのダッカ市で2014年に開業した
和牛レストランだ。もともと同国出身者がいたため始まったビジネスだが、同
国でのスーパー経営までつなげるのが今のところの目標だ。人口減に苦しむ地
方でも、変化への果敢な挑戦が成功の秘訣なのかもしれない。(戸田健太郎)
 ししくら・ひろあき 1960年千葉県生まれ。都内の企業でサラリーマン
生活を経験し、36歳の時に父の後を継いで宍倉の社長に就任した。現在は県
内で主にスーパーなどを展開する。

■4)『事務連絡』

□ 第10回 行事のお知らせ 11月6日(金)【講演会開催】
 http://goo.gl/9EDL4f

【講演会開催】
日本で半世紀暮らしたバングラデシュ人から見た国際交流と相互理解の挑戦

◇講演者:
 七田央氏 Mr. Hisashi Shichida (ジアウル・イスラム、Ziaul Islam、)
◇日 時:
 2015年11月6日(金) 18:30-20:30 (開場:18:15)
◇会 場:
 聖心女子大学二号館三階30番教室
 http://www.u-sacred-heart.ac.jp/access/
◇参加費:
 個人会員・法人会員: 無料
 当日入会申し込みの方も無料となります。
 非会員(一般 1000円/学生 500円、但し聖心女子大学学生は無料)

申込方法:

案内文
二十歳で祖国から日本に渡り、日本語を学んだあと商船大を卒業、25年間船会社
に勤務。
その後日バ間の貿易を専門とする貿易会社を設立された七田央さんは、在日バン
グラデ
シュ人からも、知バングラ派日本人からも信頼され、頼りにされています。その
彼の口
から、彼の半世紀の体験を傾聴し、国際交流と相互理解の重要さや困難さについて、
議論を交わします。

◇申込方法:こちらからお申し込みください。
 http://goo.gl/forms/VbY1xwdVLD
 もしくは 本メールへの返信で申し込み願います。

 記載事項
 1)お名前
 2)会員区分:法人会員・一般会員・学生会員・新規入会希望
 3)非会員: 一般・学生
 4)E-mailアドレス:
 5)ご連絡先(電話/携帯電話)
 6)関心事項(記載は任意です)

皆さまのご参加をお待ちしております。

本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ
勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会
http://www.japan-bangladesh.org/