日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ44号会長メッセージ
―「ダッカ国際詩人サミット」での日本人詩人の受賞― 』会長: 堀口松城
2)『「エクシェ・フェブラリー」の式典に参加して』      理事:渡辺一弘
3)『第5回国際ベンガル学会
(ジャハンギルノゴル大学、2018年1月25-28日)の報告』 理事:外川昌彦
4)『私とバングラデシュ 』                  会員:小林博子
5)セミナー『バングラデシュのLDC卒業と更なる発展への挑戦』 3月30日(金)
6)『事務連絡』

■1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ44号会長メッセージ
―「ダッカ国際詩人サミット」での日本人詩人の受賞― 』会長: 堀口松城

去る1月30日から2月3日までダッカで開催された第4回「国際詩人サミット」におい
て、詩人で朗唱家の天童大人さんが「コトーク(語り部)賞」を受賞されました。同
サミットは、バングラデシュ詩人協会が2015年から始め、第4回になる今年は、日本
のほか、米、英、エジプト、台湾、コロンビアなどから6名の詩人が同文学賞を受賞
しました。このサミットには、バングラデシュからもアミヌル・ラーマン、アサド・
チョードリ等著名な詩人も参加し、ダッカ市内各地で詩の朗唱が行われました。

バングラデシュの近年の経済的発展ぶりは目覚ましいものがありますが、未だ必ず
しも豊かとは言えないバングラデシュが、このような国際詩人サミットをもう5回も
開催していることを知って嬉しくなり、早速、天童さんに面会を求め、いろいろお話
を伺ってきました。
天童さんは、1984年、長崎県対馬の和多都美(わたつみ)神社の一の鳥居に立って
「聲」を奉納すると、5つの鳥居を貫いて250メートル離れた本殿へ、そしてまた湾全
体へ響き渡る古代からの「聲の道」を開き、以来「聲の奉納」を四半世紀続けてこら
れたことで知られています。
また、十数年前から仲間の詩人とともに、東京をいつでも詩人の肉声で詩を聞ける
街にする「詩人の肉声とコトバとを聴く」プロジェクト(Projet 「La Voix des
Poetes」)を進めてこられ、この肉聲の復権を目指す「目の言葉」から「耳のコトバ」
へ、との運動は、日本の詩人・作家等の声の力を高め、参加者の「耳のコトバ」を育
て、日本語を世界に示すことを狙いとしている由です。
詩は朗読して初めて真価を持ち、また、詩を作った後、声を出して読むと、いろい
ろ直すところが出てくるとおっしゃっていましたが、お話しを聞いていると、詩は本
来そう言うものかもしれないと思われてきました。
国際的にも2002年、イタリア・ヴェローナでの春の詩祭で聲を奉納され、その後
も、イラクでの第二回バビロン文化芸術祭や、テヘランでの国際詩祭、ソウルでの韓・
中・日 国際詩祭などにも招待、参加されて「声を撃ち込んで」きたそうです。
このような実績の上に、昨年のクリスマス・イブにダッカの詩人アミヌル・ラー
マン氏から、突然、詩作品5編と写真・略歴を送れとの連絡が入り、翌日、あと10編、
詩を送れと言ってきた後に、「ダッカ国際詩人サミット2018」への招待状が届いた由
ですが、ダッカ滞在中は、多くの機会にマイクを使わずに肉声で日本語をダッカの宙
(そら)に撃ち込んでこられたそうです。
天童さんは、このサミットに参加し、詩、文学に対するバングラデシュの人々のエ
ネルギーのすごさを感じることができたが、ダッカの熱気はテヘランのように地底か
らの熱気ではなく、人のエネルギーであると分析しつつ、日本は確かに小ぎれいには
なったが、このようなエネルギーは失われ、また、詩の様な目に見えないものにあま
り協賛や助成をしなくなっていることを寂しがっておられました。
私からは、実に多数のバングラデシュ人が詩に対する特別の思いを有しているが、
それは彼らが、ベンガルの風土の中で1年を春夏秋冬に早春と梅雨を加えて六つの季
節に分けながら、六つの季節とそれぞれの季節の移り変わりに対して抱く特別の思い
が、自然の観察を繊細なものにしているためではないかとの見方を天童さんにお伝え
しておきました。バングラデシュの人達がこれからも詩を大事にされ、詩に対する想
いを薄れさせつつある日本人に、時折でも思い出させてくれることを願っています。

■2)『「エクシェ・フェブラリー」の式典に参加して』     理事:渡辺一弘

2月21日、紀尾井町のバングラデシュ大使館で行われた言語運動記念日の式典に、
日本バングラデシュ協会の堀口会長、七田理事、神山監事、早川監事らと共に参加し
た。
ご存知の方も多いかと思うが、2月21日はバングラデシュの重要な記念日の一つで
ある。1952年のこの日、ウルドゥー語を唯一の国語と定めようとする当時のパキスタ
ン政府の方針に反対する大規模なデモがダカであり、警官隊との衝突で複数の学生・
市民が命を落とした。ベンガル語を国語の一つとして認めさせようというこの運動は
多くのベンガル人の共感を呼び、民族意識を高揚させ、のちに1971年の独立戦争へと
つながっていった。この事件で犠牲者となった人々を偲ぶために創建されたのが、ダ
カ大学近くにあるショヒド・ミナル(殉難者記念塔)である。抗議運動が行われた日
付のベンガル語にあたるエクシェ・フェブラリーと呼ばれるこの日には、未明から大
統領、首相をはじめとして多くの国民がショヒド・ミナルに花輪を携えて訪れ、犠牲
者たちの遺志を継いで、ベンガル民族と文化の象徴としてのベンガル語を守っていく
という誓いを新たにするのが習わしとなっている。1999年、ユネスコは2月21日を
「国際母語デー」と定めたが、そのきっかけとなったのはカナダ在住のバングラデシ
ュ出身者たちが国連事務総長に対して行った提唱だった。
2月21日にはバングラデシュ国内各地、さらに海外でも在外公館を中心としてこの
日を記念する催しが行われる。東京では毎年、池袋の西口公園にあるショヒド・ミナ
ルのレプリカ前に大使はじめ大使館の職員一同およびバングラデシュ人市民が集まっ
て犠牲者たちに祈りを捧げ、その後大使館で式典を開催するのが恒例となっている。
今年も朝7時半に行われた行事に続き、9時からは大使館での半旗掲揚、続いて式典が
開催された。式典ではまず、バングラデシュ大統領、首相、外相、外務担当相のメッ
セージが読み上げられ、大使の挨拶に続いてバングラデシュ政府が製作した広報用ド
キュメンタリーフィルム上映、そして式典参加者たちによるスピーチが行われた。こ
れらも毎年恒例のことである。
スピーチ・セッションではかなりの数のバングラデシュ出身者とともに、丹羽京子
東京外国語大学准教授(日バ協会理事)と私が指名され、エクシェ・フェブラリーに
関してそれぞれの思うところを述べた。
私は言語運動の歴史について述べた。ベンガル語の言語運動というと1952年を思い浮
かべることが多いが、実は分離独立直後の1947年からその兆しは見られた。この年、
ダカ大学の物理学の教授だったアブル・カシェムが編集した「国語はベンガル語かウ
ルドゥー語か」という小冊子がダカで発行された。新生パキスタンでウルドゥー語の
国語化を進めようという西パキスタン側の動きを踏まえてのことだった。アブル・カ
シェムは一方でイスラム教の理想実現を目指して文化団体を立ち上げた人物で、パキ
スタンの建国そのものに異を唱えたわけではない。ただベンガル人として、パキスタ
ンのなかでベンガル語の地位確立を目指したのだった。
1948年、パキスタン建国を指導したムハンマド・アリ・ジンナー総督がダカを訪れ、
「ウルドゥー語をパキスタンの唯一の国語とする」旨の発言を行ったため、学生など
を中心に抗議の声が起こった。批判した学生たちの中には、のちにバングラデシュ建
国の父と言われるようになるシェーク・ムジブル・ロホマンもいた。当時の東ベンガ
ル州政府の懐柔策により反対運動はいったん沈静化したものの、1952年カジャ・ナジ
ムッディン総督が同様の発言を行ったことで、言語運動は再び急激な高まりを見せた
のだった。こうしたことは大半のバングラデシュ人がすでに知っていることではある
が、この日スピーチを求められたことを契機に、自分なりに言語運動の流れについて
まとめてみようと思いついたために、私の話はこんな内容になった
丹羽理事のスピーチの大半は英語で行われた。あえて、ということであったろう。
というのも当日バングラデシュ大使館に集った人々を最大限に繋ぐ(リンク)する役
割を果たすことができる言語は英語だったからである。こうした言語はリンク・ラン
ゲージと呼ばれる、と丹羽准教授は説明した。例えばインドでは、ヒンディー語を国
語とすることが憲法で定められているが実効性を持たないのが現状である。この措置
によりもともとヒンディーを母語とする人とそうでない人の間に不公平が生じるから
である。そのためインドでは英語がリンク・ランゲージとなっている。丹羽准教授は
さらに、ベンガル語を国語とするバングラデシュでも、英語がリンク・ランゲージと
して機能しているという重要な指摘を行った。
確かにバングラデシュ社会では、ビジネス、学術、科学技術、法曹界など各分野に
おいて英語が優位性を保っている。その傾向を下支えしているのが、学校教育におけ
る英語の盛んな使用である。中流の上以上の家庭では、英語を教育言語とするいわゆ
るイングリッシュ・ミディアムの学校に子どもを入学させようという志向が高い。そ
れは高等教育において、ベンガル語よりもむしろ英語が主要な地位を占めていること
が主な理由になっている。
「(1952年の)偉大な言語運動では大学生たちの果たした役割は極めて誇り高いも
のであったが、バングラデシュの大学教育では現在、ベンガル語の需要はないのが実
状だ。ベンガル語やベンガル文学などを除く大半の授業は英語で行われている。また
ほとんどの大学にはベンガル語科そのものが設置されていない。現在(2014年当時)
バングラデシュには国立・私立合わせて114の大学があるが、この中で私立大学79校
のうち4年間のベンガル語・文学部があるのはわずか7校に過ぎない。また国立大学35
校でもベンガル語科を持っているのはたった11校である。一方、国立大学では英語科
を備えているのは13校だが、私立ではすべての大学が英語科を設置している」(2014
年2月19日付日刊ショモカル紙)
この記事を自著「ベンガル語をめぐる問題の本質と専門的に見たその解決法
(Banglabhasha: Prakrita Shamashya O Peshadari Shamadhan, 2016)」で引用した
ダカ大学現代言語研究所のシシル・ボッタチャルジョ所長は同著の冒頭に次のように
書いている。
「12月は独立戦争に勝利した月、3月は独立を果たした月、そして2月はベンガル語
の月である。毎年2月になるとバングラデシュではベンガル語を題材とした討論会や
演説会、シンポジウムが盛んに行われるものの、他の月には活字、オーディオ、ビジ
ュアルなど各メディアにおいてベンガル語の話題はほとんど取り上げられない」
国際化がますます進む中、世界における英語の重要性は高まるばかりで、それはバ
ングラデシュも例外ではない。国民が豊かになるにつれ、同国内で英語を理解する人
の割合はこれからも増加の一途をたどることは間違いない。そうした中でベンガル語
はその存在価値を示していくことができるのだろうか?そのためには国としての思い
切った施策が不可欠となろう。例えば学校教育においてベンガル語による授業を義務
化する、あるいはすべての法廷で判決文をベンガル語で書かなければならないと決め
る、など。いずれにせよ早期的な実現は困難と思われるが、現状のままでは、ベンガ
ル語はナショナリズムのアイコンとして年に一度、ロマンチックな気持ちで想起する
ものにとどまってしまうだろう。それは―突然個人的な話になってしまって恐縮だが
―ベンガル語の美しさにうたれ、この言語を学ぶことを志した私にとって、至極残念
なことである。
誤解のないよう言い添えておくが、バングラデシュの人たちがベンガル語を軽視し
ているわけでは決してない。最近目立つ英単語やセンテンスの過剰な導入、英語風あ
るいは方言のアクセントの多用などを問題視し、そうした傾向からベンガル語を守ら
なければならないという声はよく耳にするし、標準ベンガル語はどうあるべきかとい
う議論も行われている。ベンガル語による文学作品の創作も盛んである。何よりも私
たち外国人がベンガル語を解すると知った時にベンガル人が示す親愛の表情は、こち
らの心まで優しくほぐしてくれる。
丹羽准教授はスピーチの最後をベンガル語で締めくくった。その内容は、東京外国
語大学のベンガル語専攻の学生たちはベンガル文学や音楽などの文化に惹かれ、その
基となっているベンガル語を学んでいる、ということだった。ベンガルにはベンガル
語でしか描けない美しい世界が存在する、という思いが―単なる思い込みでしかない
のかも知れないが―私にはある。ベンガル語を学ぶ人たちにぜひその世界を体験して
もらいたいし、同時にベンガルの人たちがその世界をさらに広げていってくれたら、
と思いつつ私は丹羽さんの話に共感していた。(終)

■3)『第5回国際ベンガル学会
(ジャハンギルノゴル大学、2018年1月25-28日)の報告
理事:東京外国語大学AA研・外川昌彦

2015年12月に東京外国語大学で開催された第4回国際ベンガル学会(ICBS)を受け
て、2018年1月25-28日に、バングラデシュのジャハンギルノゴル大学において、第5
回国際ベンガル学会が開催されました。以下では、その時の模様について、ご紹介を
いたします。
ジャハンギルノゴル大学は、ダッカ市近郊のサバル市にある国立大学で、大都市の
中心街にあるダッカ大学とは異なり、周囲は田園地帯に囲まれ、多くの学生が寮で生
活をする、落ち着いて勉学に専念のできる環境にあります。
今大会では、9つの国の参加者による約250本の論文報告が行われ、議論されたテ
ーマを見ると、ベンガル文学や言語学に加えて、歴史学、文化人類学、地理学、宗教
学、映像学、ジェンダー論、演劇論、教育学、経済学、メディア研究、思想、民俗学、
民俗音楽など、ベンガル研究に関わる、多岐にわたる内容についての報告がありまし
た。
大会の実行委員長はジャハンギルノゴル大学ベンガル学部のカレド・ホサイン教授、
副委員長がアブ・ダヤン教授で、会長はジャハンギルノゴル大学学長のファルザナ・
イスラーム教授が務めました。
大会の基調講演には、ドイツ・ハイデルベルク大学のハンス・ハルダル教授やインド・
ロビンドロバロティ大学のポビットロ・ショルカル教授、アメリカのフマユン・コビ
ル博士などが招待され、個人報告とは別に、イタリアのキャロル・エリカ・ロレア博
士らが組織する3本のパネル・セッションや、パハルプル遺跡に関する映像セッショ
ンが行われました。
日本からは、東京大会を成功裡に終えることができた御礼の意味も込めて、国際ベン
ガル学会・日本支部の代表として谷口晉吉教授、同事務局から筆者が参加して、日本
の研究者を中心としたパネル報告などを行いました。また、この機会に合わせて、
2015年の東京大会で報告された論考をまとめた学術誌(Bangabidya: International
Journal of Bengal Studies)の特別号も刊行され、会場でお披露目されました。国
別の参加者数を見ると、お隣のインドがやはり一番ですが、次に多いのは日本からの
参加者となりました。
日本側で企画されたパネル報告は、ひとつは「ベンガルのバウル伝承における宗教
性とモダニティ」(The Religiosity and Modernity of the Baul Tradition in
Bengal: Changing Faces of Baul in the Era of Globalisation -2)と題し、これ
は2015年の東京大会で行われた「グローバル化の時代に変貌をとげるバウル」を受け
た、継続的な研究報告の一部として開催されました。
もうひとつのパネル報告は、「50年後に回想される村落-故原忠彦教授の民族誌再
訪」(Remembering Village after 50 Years: Reconsidering an Ethnography by
the late Professor Tadahiko Hara)と題し、これは日本におけるバングラデシュ研
究の草分け的存在である、故原忠彦教授(1934-1990)の研究を回顧する記念シンポジ
ウムとして企画され、原教授が所属した東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研
究所との共催として、開催されました。

■4)『私とバングラデシュ 』                 会員:小林博子

1. バングラデシュは、私の心の中で、大きな位置を占める大切な国である。
2002年末に初めて訪ね、翌2003年二回目に訪れた時、遭遇した若い女性教師の自殺、
彼女が死をもって訴えようとしていることに私は打ちのめされた。この死によって私
の生き方は変わった。
日本では求めさえすれば誰でも実現できる女性の自由を、彼女は死をもって訴えて
いた。女性たちの先頭に立ち頑張ってきた彼女の意思をつなぐため、私はその場で、
「ハンガー・フリー・ウイメンスカラシップ」の設立を決意した。その後このスカラ
シップは多くの賛同者の協力により、今日に至っているが、現在小学校から大学迄、
120名の女性たちを支援し、2013年には卒業生から高校教師も誕生、2年後には女性の
医師誕生等、多くの女性が厳しい環境の中で、自分の夢に向かって歩き続けている。
そして、そのうち数人の学生は結婚し、子供を産み、かつ卒業を目指す逞しさであ
る。彼女たちは卒業後も困ったときは助け合い励ましあって生きていくことだろう。
そしてそのパワーは、後輩や周囲の貧しい人々のために尽くす、大きな力になってい
くと信じている。国の繁栄も、世界の平和も女性の力なしでは考えられない。私の夢
は女性の力で戦争のない社会に一歩でも近づくことである。
2.花こそ平和の象徴であるとの思いを抱きながら、50年間「小原流」
の生け花を教えてきた。私は我が子を持つ女性ならではとの視点と、第二次大戦の戦
火をくぐって来た者として、平和への強い思いを写真によって発信し続けていきたい。
そのような思いからこれまで以下の個展を開き、バングラデシュの様々な姿を知らせ
る努力を重ねてきた。
2003年12月 第3回個展バングラデシュPart I
「未知なる国バングラデシュ『ベンガルの女達』」、
同 年12月 第4回個展バングラデシュpartII
「ランガマティ―の朝」、
2004年 4月 第5回個展バングラデシュPart III
「To Meet Bengals
Women I Wish to Go to Bangladesh Again」(バングラデシュ政府主催)
2006年11月 第7回個展バングラデシュPart V
「女達の詩」
2010年 2月 第11回個展バングラデシュPartVI
「オールドダッカの朝」
2013年10月 第14回個展「バングラデシュ理想に向かって歩き始めた女性達」
そして
2017年9月第15回個展「ハティア島への旅」
なお、2003年7月、「未知なる国バングラデシュ『ベンガルの女達』」を出版した
が、この売上金の50%でスカラシップを設立したものである。
3.2017年3月、私は3年ぶりにバングラデシュに向かう機内にいた。
2003年「ウイメンスカラシップ」を立ち上げて以来、毎年3月には次年度の受給生を
決定するために訪れていた。発足から15年、カレッジや大学を卒業する生徒も出てき
た。そして今回、嬉しいことにバングラデシュの社会のなかから、ウイメンスカラシ
ップの応援の輪が生まれた。それは本来あるべき姿であり、心から嬉しく思う。この
会が大きく成長することを信じている。
今回の「ハティアへの旅」はインドから流れ込む二つの大河(ガンジス河、ブラマ
プトラ河)を私は前年インド奥地に訪ねたが、この大河がバングラデシュで人々とど
う接し、流れていくのかを知りたいと思った。ハティア島は、この二つの大河の堆積
によりできた島の一つである。インド、ベラナシのガンジス河でヒンドゥの人々は、
現世に別れを告げ、チベット仏教の人々は、ブラマプトラ上流で、鳥葬や水葬で別れ
を告げている。この二つの大河はバングラデシュに入ると、メグナと名を変え、作物
や魚を育て、人々が生きることを可能にしている。また、ハティア島では、沢山の若
い人々が、島の誕生と同時に移り住み、そこで逞しく生きようとしている。その姿を
見て、私は明快な答えを得た。それは「万物の再生」である。これこそ地球の営みな
のである。

■5)セミナー『バングラデシュのLDC卒業と更なる発展への挑戦』

バングラデシュ大使館では、来る3月30日にセミナーを開催するとの事で、
日本バングラデシュ協会の会員を同セミナーに招待したいとの申し出がありました。
尚、本セミナーの主催者はバングラデシュ大使館ですので、参加お申込みは
当協会から大使館へお伝えするためのものです。

セミナー: 「バングラデシュのLDC卒業と更なる発展への挑戦」
日時: 2018年3月30日(金) 17:00~
場所: バングラデシュ大使館
東京都千代田区紀尾井町3-29
アクセス:半蔵門線・南北線: 永田町駅下車、徒歩約10分
有楽町線: 麹町駅下車、徒歩約10分
招待対象者:日本バングラデシュ協会の個人会員・法人会員・学生会員に限定
申込の締切り:3月28日18:00まで
参加申込: https://goo.gl/forms/KFDqCRQYTMbgal3Q2

■6)『事務連絡』

会員情報変更届のお願い:
事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住
所変更、メールアドレスが変更されました場合はinfo@japan-bangladesh.org
<mailto:info@japan-bangladesh.org> まで
お知らせ下さるようお願い致します。

本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ
勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

===============
一般社団法人 日本バングラデシュ協会
http://www.japan-bangladesh.org/ <http://www.japan-bangladesh.org/>