日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ48 号会長メッセージ
―バングラデシュ マクロ経済の展望とJICAの取り組み:
成長の発火点(Ignition Point)を迎えた新興国―』    会長:堀口松城
2)『バングラデシュと私』          大阪外国語大学名誉教授 溝上富夫
3)『現地便り:道~出会いこそ人生』       鈴木織機専務取締役 間瀬隆行
4)『古参、青年海外協力隊バングラデシュOBの独り言』     理事:佐藤利哉
5)『日本とバングラデシュの『絆』
― Jalal:二つの国民の心を結んだ人 ―』         理事:太田清和
6)『イベント・講演会のご案内』
□【ドキュメンタリー&トーク】「ロヒンギャの証言 -無国籍であるということ」
(主催:世界の医療団(認定NPO法人) 2018年7月26日)
7)『事務連絡』

■1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ48 号会長メッセージ
―バングラデシュ マクロ経済の展望とJICAの取り組み:
成長の発火点(Ignition Point)を迎えた新興国―』    会長:堀口松城

さる6月13日開催された「日本バングラデシュ協会 企業情報交換会」において、
JICAの南アジア第四課(バングラデシュ担当)の高橋暁人課長より、近年目覚ましい
経済発展を続けるバングラデシュのマクロ経済の展望を踏まえ、バングラデシュのさ
らなる発展のため、JICAがいかに取り組もうとしているかにつき興味深い講演があり
ました。その内容は企業会員のみならず、バングラデシュの発展を願う一般会員の皆
様にとりましても関心の高い問題と思われますので、以下要旨をご紹介します。
なお、本講演は、「企業情報交換会」の会員へのアンケートで、
バングラデシュのマクロ経済に関する講演希望があったことを踏まえ、高橋課長にお
願いして行われたものです。

1.バングラデシュの概況
(1)最初に「マクロ経済は堅調」として以下の諸点を挙げています。
(1)経済成長率は過去10年間平均6%超。近年は7%に迫る。
(2)マネーサプライの伸びを抑えてインフレ率を抑制。
(3)財政赤字はGDP比4%前後。歳入は徴税能力の強化が課題。
(4)経常収支はおおむね均衡。貿易赤字を海外労働者送金で補填。
(5)輸出の伸びは約8割を占める縫製品が牽引。産業多角化が課題。
(6)資本収支も小幅な黒字。但し、外国直接投資の伸びは低調。
(7)国際収支の黒字により外貨準備は300憶ドル(輸入7か月分)。
(8)対外公的債務レベルは約15%と低レベルで推移。IMF も評価。

(2)次に、「バングラデシュの産業構造」として、「縫製産業を中心とする製造業
が経済成長を牽引、皮革産業等一部の産業の成長で産 業多角化の予感」としつつ、
セクター別GDPシェアー、GDP成長率を以下の通り捉えています。
(1)農業(第1次産業):    対GDP比 15.4%、 GDP成長率 2.8%
(2)産業(第2次産業) :   対GDP比 31.5%、 GDP成長率 11.1%
製造業       対GDP比 21%、  GDP成長率 11.7%
(3)サービス(第3次産業): 対GDP比 53.1%、 GDP成長率 6.3%

(3) バングラデシュの投資環境及び外国直接投資(FDI)
外国直接投資は、近隣の新興国と比較して未だ僅少で、投資環境は改善の余地あり
とし、新興国の間のビジネス環境競争順位は、190か国中第177位としています
(出典世銀)。

(4)バングラデシュの公的債務の動向は、現状では公的債務のレベルは低レベル。
しかし今後の動向は要注意で、理由は次の通り。
(1)現在、財政収支は赤字続きで、公的債務増大の恐れあり。
(2)特に天然ガスの純輸入への転換。
(3) 中国を含む他ドナーの貸付動向等も要注意。
(4)最貧国卒業すれば、公的債務免除、 特恵関税などが適用除外。

2.「成長の発火点を迎えたバングラデシュ」の今後の発展。
(1)国内需要や資源の開発をベースとした自然発生的な経済成長から、1,2の産業
の発展をベースに加速化して発火点に達すると、成長を支える産業基盤が広がり、
成長は加速化。インフラへの投資と技術の普及が進行。また、消費者の購買力が上
昇し、経済成長も国内需要の動向がより重要な要素に。この段階で経済は成熟局面
に。

(2)2016年のバングラデシュの一人当たり国民所得(GNI)は1,330ドルで、他国の
例では1,000ドルを超えると、成長加速化の傾向。
(3)人口は平均年齢24歳で、今後40年に亘り人口ボーナス期に。生産拠点及び一大
消費市場となる可能性秘め、成長を支える見込み。
(4)新中間層の拡大と国内市場成長の傾向。ミャンマーより多くの中間層が存在。
他の新興国に迫る勢い。

3.発火点を迎えたバングラデシュの発展に必要なJICAの取り組み
(1)インフラの整備・改善:インフラ・マスタープランや地域総合開発プラン等の
作成。上記計画等に基づく電力、運輸、都市開発に係わるインフラの整備、改善:
(1)マタバリ石炭火力発電所事業(7,000億円)
(2)ダッカ都市交通整備事業(2,800億円)
(3)国際空港拡張事業 (1,920億円)
(4)ジャムナ鉄道専用橋建設事業(1,500億円)
(5)カチプール・メグナ・グムティ第2橋建設及び既存橋改修事業(1,033億円)
(6)ダッカ・チッタゴン基幹送電線強化事業(700億円)

(2)FDIの促進と輸出の拡大
(1)質の高い産業成長・経済発展にむけた開発指針やビジョン策定
(2)投資促進・産業競争力強化の政策・制度環境改善
(3)日本企業向け経済特区開発など海外直接投資促進事業

(3)産業人材の育成・スキルの開発・技術の導入
(1)裾野産業の人材育成:縫製品が輸出額の8割との産業構造から産業多角化を目
指すため、裾野産業育成や産業の人材育成等を支援(特にライトエンジニアリン
グ産業、プラスチック産業)。
(2)IT人材育成:「日本市場をターゲットとしたICT 人材育成プロジェクト」
バングラデシュにおいて、日本市場を念頭に(1)ICT人材育成支援に係る官民連
携体制の確立(2)民間企業によるICT人材育成プログラム・モデルの形成(3)
ITEE(情報処理技術試験)の運営体制改善等を行い、日本市場で活躍できるICT人
材の育成を目指す。「宮崎・バングラデシュモデル」:両国で不足するものを補
完しあう新たな協力枠組み。(すでに第1期生は日本の企業に就職。)
4.社会の安定
(1)持続的成長に向けたもう一つの課題:政情、社会安定が不可決。
(2)バングラデシュ政府の持続可能な開発目標実現への一層の支援。
(3)農業の育成、保険システムの改善、教育の普及、防災・気候変動への対応能力
強化、ガバナンス改善が必要。これらの活動を通して社会における脆弱性を軽減し
て、社会の安定化を図る。注.バングラデシュに対する円借款事業の推移
(1)円借款の新規供与規模は大型案件の増加に伴い2010年代より拡大し、貸付実行
は大型案件の工事開始に伴い増大傾向している。
(2)その結果、バングラデシュは、有償資金協力供与先として、2014年1位
(1,210億円)、2015年6位(1,333憶円)、2016年3位(1,735憶円)、2017年2位
(1,782憶円)と推移している。
(3)なお、最近の最大の円借款新規供与国はインドであるが、2017年の新規供与額
は3841億円とバングラデシュのほぼ2倍であり、人口規模、国土面積等両国の差を
考えると、バングラデシュのウェートの高まりが注目される。


■2)『バングラデシュと私』(全3回の1)   大阪外国語大学名誉教授 溝上富夫

私が、最初にダッカの地を踏んだのは、1970年12月3日の夜、バンコクからダッカ行
のPIA(パキスタン国際航空)を利用して、翌朝のカトマンドゥへ向かう便へのストッ
プオーバー地として降り立った時だった。当時はまだ東パキスタン時代だった。プルバ
ニ・ホテルに一泊しただけで、翌朝の早く、また空港に向かわねばならなかったので、
数時間睡眠をとっただけの滞在だった。従って事実上、ダッカ市内はなにも見ていない
。街は暗く、今と違って通行人も少なく全然活気がなかったという印象しかない。空港
そのものが、首都とは思えない小さなローカル空港という感じだった。PIAの飛行機が1
機しか駐機していなかったと思う。パキスタン建国以来初めての総選挙を控えた時期だ
ったので、東パキスタンの政治情勢が緊迫しつつある頃だった。その総選挙で、アワミ
連盟が勝利し、その政権の成立を認めまいとするヤヒヤ政権と対立して東パキスタンは
内戦状態に入り、インド軍の介入により、バングラデシュが独立をしたことは周知の通
りである。300万人という犠牲者をだすという悲劇を経験して独立するのだが、1970年
12月3日という日は、インド軍が介入した日のちょうど1年前ということになる。
そもそも、バングラデシュの独立というのは、その後のソ連の崩壊・東西ドイツの統
一を誰も予測していなかったのと同様、南アジアの専門家でさえ誰もが予測していない
ことだった。この意味で、世界史的にみても、大事件だったのである。

私は1967年~68年にかけて、インド・西ベンガル州のシャンティニケタンでベンガル
語を学んでいた。当然、東半分の隣国で同じベンガル語を話す民衆のいることには関心
をもっていたが、情報もなくアクセスの手段も持たなかった。しかし、大学時代の同級
生が神戸製鋼の社員としてチッタゴンに滞在していたので、彼を介して、レミントン製
のベンガル語タイプライターを大学の研究室用にとりよせてもらったことがあった。も
ちろん手動式で、結合文字の多いベンガル語の文字を打つには非常に不便だったが、当
時としては、貴重なものだった。また、カラチからBangla Bolun (ベンガル語を話し
ましょう)というLP盤の語学教材が発売されていたので、それも手に入れた。パキスタ
ン建国以来、ベンガル語は中央政府から認められてこなかったが、それでも、ベンガル
語もウルドゥ語と並んで正式の国語として認めてからは、西の政府もそれなりに、ベン
ガル語の普及に尽くしていた一つの証拠なのだろう。対象はウルドゥ語やパンジャービー
語やシンディー語の話者である。(なお、このほか当時入手可能なベンガル語音声教材

としては、ロンドンからでていた、ただ1枚だけのSP盤だけだった)
私は1968年4月から文部教官として、大阪外国語大学でヒンディー語と並んで初級ベ
ンガル語も担当していたので、まだ見ぬ東パキスタンに大いに関心があった。1970年の
春には、東京で、パキスタン留学生の会主催で、「日本人によるパキスタン語弁論大会
」というのが開かれ、故奈良毅先生の教えを受けた東西の外大生たちが参加した。皮肉
なことに、その翌年に「パキスタン語」が存在しなくなる大事件が起こったのは周知の
とおりである。私がバンコクからカトマンドゥに行くのに、わざわざ(タイ航空やネパ
ール航空の直行便があるのに)パキスタン航空を選んだのも、すこしでもダッカを見た
いという気持ちからであった。あの時間帯のストップオーバーでは、ホテル代が無料に
なるとの計算もあった。

さて、こうして1971年にバングラデシュが独立してベンガル語が晴れて唯一の国語と
なった。ごく少数の少数民族はいるものの、日本や韓国に似た、ほぼ単一民族国家とい
う、南アジアでは珍しい国家が出現したのである。できるだけ早くこの新国家をみたい
という気持ちが起こったが、独立による混乱のためなにかと不安で、まだ早急には訪問
ができなかった。
しかし、意外に早く、その希望を実現するチャンスが訪れた。それは、1971年の暮れ
から1972年の初めにかけて、「日印タゴール協会」が実施した短期のインド・バングラ
デシュ研修旅行を企画し、15人ほどの若者たちの参加者を募って実行したことだ。日印
タゴール協会は、ゲーテ協会を倣って、日印文化交流を目的として、タゴール研究の泰
斗、故我妻和男先生を中心として、シャンティニケタンの元留学生たちが結成
した団体である。我妻先生を団長として何度かインド研修旅行を実施しているが、バン
グラデシュを訪れたのは一回だけで、それもダッカに4日滞在しただけである。独立
後ほぼ1年が経っていたとはいえ、市民生活は極度に物資が不足していた。その頃、単
身で大阪大学に留学していたバングラデシュの留学生が、私に託してダッカにいる家族
に届けた品物というのが、粉ミルク、トイレットぺーパー、お菓子、おもちゃ等の日常
品であった。5キロ以上の「援助物資」を運搬するために、私は自分の荷物を15キロ以
内に収めたものだ。

(次回メルマガに続きます)

■3)『現地便り:道~出会いこそ人生』      鈴木織機専務取締役 間瀬隆行
鈴川織布株式会社<会社プロフィールはこちら>
http://www.suzukawa.co.jp/company/about.html

弊社のリネン製品は 1990 年から中国の工場で生産しています。中国情勢が変わり、
人件費の高騰、公 害問題など、生産拠点が中国だけでは大きなリスクになっていた
2009 年、「チャイナ・プラスワン」戦 略に基づき、ベトナム、ミャンマー、カンボ
ジア、バングラデシュの 4 ヶ国を候補地として、様々な調 査を行った結果、「安全
で安定した供給が見込める」こと、「労働人口の多さと賃金水準」、「将来的な消
費市場としての可能性」これら三つの要因で進出先をバングラデシュに決めました。

まず、パートナーを探すために現地に赴きました。リネン製品の紡績、織布、生地
染色、縫製、出荷ま でを担える大手の一貫工場であることが、パートナーの第一条
件でした。日本の製造業は、多種類を少 量つくって販売する、「多品種小ロット」が
主流で、弊社も同じビジネスモデルです。かたやバングラデ シュの大手工場では、
ウォルマート社や IKEA 社の製品を大量生産しています。2 年の月日をかけ、現 地
商社の伝手などで、20 社以上の大手工場を訪問しましたが、価格と契約ロットが合
わず、話が進みま せん。

2012 年、ニュービジョン社と出会い、バングラデシュでのビジネスが動きだしま
す。彼らから現地大手 のシーツ会社会長の紹介を受けたことで、同社子会社のタオル
工場と OEM 契約ができたのです。日本 の品質基準を満たすよう、スタッフが現地で
品質指導を始めた頃、同社の経営状態が悪化、工場売却の 話が持ち上がりました。
書面を取り交わし、資金も人員も投資していましたが、安定的な生産拠点にな りえ
ないと判断し、契約を解除しました。

2013 年、現地でのパートナー探しを再開。大手一貫工場を対象とせず、生産数量
と価格の合う専門分野 別の工場をあたることにしました。まず、何万社とある小規
模工場のリストを現地政府から入手し、パ ートナー募集の DM を送り続けました。
しかし、反応はありませんでした。次に、英語の字幕つきで弊 社代表が理念を語る
自社の PR ビデオを作成し、その動画を視聴できる DM を送ったところ、約 20 社
から返信がきたのです。私達は、全ての会社にコンタクトを取り、1社ずつ商談に出
向きました。

2014 年 12 月、バングラデシュで従業員 100 名規模の会社を設立しました。前述
の20社の中から出会 った、ソヘル氏との共同出資合弁会社「エンジェル鈴川」です。
設立の日を迎えるまで、ソヘル氏とは、 仕事や家族のこと、色々な考え方や価値
観について朝まで語り合いました。互いに信頼関係を構築し、 設立を決めてからの
準備期間は、文化も価値観も超えて分かり合えるパートナーに出会えたこと、ビジ
ネスの拡がる可能性に、心躍る日々を過ごしました。

工場では、5Sを理解してもらうために、幹部社員全員で掃除を始めました。私とソ
ヘル氏は工場で一番 汚い場所だったトイレを、一番美しい場所に磨き上げました。
工場は日に日にきれいになりましたが、 生産現場では、使ったものを元の位置に戻
さない、生産したものを平気で床に置く、生産時間を全く意識しないなど、現地従
業員との文化習慣の違いを強く感じることばかりでした。それでも、幹部社員全員
が率先垂範を徹底し、設立半年で縫製部門の不良率を 3%以下まで下げることがで
きました。また、 福利厚生の一貫として、現地従業員の定期健診を実施することに
しました。受診先として、弊社地元半 田市市長よりご紹介を受けた、現地「アイチ
ホスピタル」のドクターを初めて訪問した日、病院で偶然 出会ったのが、ホスピタ
ル・トータル・ソリューション会社最大手 シップヘルスケアホールディング ス株式
会社 専務取締役 小林宏行氏でした。あの日、小林氏の名刺を頂戴していなかったら
、後述す る大きなチャンスはつかめなかった、運命の日でした。

月日の経過は早く、会社設立からあっという間に決算 1 年目を迎えました。決算
書を分析した結果、エ ンジェル鈴川を解散・閉鎖することを決めました。原因はい
くつかありますが、「原価シミュレーション が甘かった」、この一言に尽きると思
います。織布部門のコストアップ(電気代金:年 10%アップ、ガ ス代金:年 16%
アップ)には打つ手がなく、当初試算していた金額では、生産・販売ができなくなっ
て いました。

バングラデシュであれば、付加価値の低い(=安く生産できる)製品が生産できる
と考え、会社を設立 しましたが、実践してみて「付加価値の低い製品を生地から生
産して利益を確保することは非常に困難」 と、理解しました。大きな損失を出した
失敗談ですが、いつか必ずこの国で、損失以上の利益を出すと、 全社員の前で固く
誓ったことを、今でも鮮明に覚えています。

リベンジの足掛かりを考えていた、2017 年 10 月、小林氏から電話をいただきま
した。2019 年 4 月の 病院開業に向けて、リネン販売だけでなく、リネン品の洗濯
と病院食事業に参加する覚悟があれば、お 任せしてもよい、とのお話でした。洗濯
事業については、御取引先の株式会社東基様から様々な助言を いただき、前述した
ニュービジョン社のジュン氏とは、共にプロジェクトに取り組む決意で、新会社(合
弁会社)設立に向けて準備中です。かくして、ご支援ご協力のもとで体制が整い、
2018年1月、この覚 悟を、小林氏にお伝えしました。現在は、次の三つの長期目
標を掲げ、
1、10 年以内にバングラデシュ国内での上場
2、IT と病院食をコラボさせた新事業でバングラデシュ国内の食事に対する健康管
理を確立させる
3、東南アジアへの進出 この大きなビジネスチャンスに全力で応え、最高のサポー
トができる組織作りに集中しています。

最後に、小林氏からのお言葉を借りて、「茨の道ではあるが、第一歩を踏み出し、
T型人間たれ(特定の 分野を究め、その深い専門知識と経験・スキルの蓄積を自らの
軸に据えつつ、それ以外の多様なジャン ルについても幅広い知見を併せ持っている
人材)」を実践していくことが、弊社の次世代の成長基盤に なると確信しています
。バングラデシュでの出会いが、ビジネスと人生を動かしてきました。これから も
茨の道での新しい出会いを大切に、一歩ずつ歩んでまいります。 最後までお読みく
ださりありがとうございました。

■4)『古参、青年海外協力隊バングラデシュOBの独り言』    理事:佐藤利哉

・1981年7月青年海外協力隊56年1次隊の我々、8名はうだるような暑さの
ダッカ空港に到着した。空港はベンガル人たちで溢れかえり、それに我々は圧倒さ
れ、気分はオオカミの群れに放り出されたヒツジ達であった。暑さは気候的ものだ
けでなく、そこにいたベンガル人たちの熱気も含まれていたことと思う。こんな土
地で任期である2年間を全う出来るのかとただただ不安であった。

・首都ダッカで我々8名は数日間のオリエンテーションを受け、そしてそれぞれの
任地に分かれていった。私の所属はIRDP=Integrated Rural Development Program
、後のBRDB=Bangladesh Rural Development Boardとなる政府組織で、任地は北東
部Sylhetである。活動内容は農業協同組合だ。
1970年代コミラ県で行われ成功した総合農村開発事業はこれをモデルとし、そ
の後、政府の後押しでバングラデシュの村々に農業協同組合を作ることとなった。
しかしながら、全国に作られた農業協同組合は作られたまま、ローンは貸し出され
たが、回収出来ないままで大問題になっていた。これはローンを受け取った農業協
同組合員=農民が悪いわけではなく、詳しい説明もなくローンの貸し出しを進めた
IRDPの職員たちの責任もある。
そして、私の活動は作られそのままにされていた農業協同組合の活性化であった。
活動内容を詳しく述べると限られた文字数の中では収まり切れないので割愛させて
頂きたい。
ただ言えることは、自分の技術力もなかったことも問題ではあったが、農業協同組
合のような組織を一人の力で活性化させことはあまりにも難し過ぎると言うことで
ある。
ダッカ空港に到着した時は2年間の任期を全う出来るのかと思っていたが、結局は
1年間の任期を延長し、3年ほどバングラデシュで活動続けた。

・1984年帰国し、一般企業に就職したが、地元である神奈川県にて青年海外協
力隊神奈川県OB会で会長職も行い、1991年に発足したバングラデシュOVの会
にもかかわることとなる。

・1991年はその年の4月バングラデシュを襲ったサイクロンは死者14万人を
出し、被災者は1千5百40万人を出した未曽有のサイクロンであった。発足した
ばかりのバングラデシュOVの会はこのサイクロンに遭ったバングラデシュへの復
興を為に募金活動を行った。その後、日本政府の援助にてサイクロン避難施設であ
るサイクロンシェルターを建設する計画が上がり、1992年に青年海外協力隊事
務局へJICAより本調査前の事前調査の連絡が入った。そしてバングラデシュO
Vの会がその事前調査を担い、22名のOB,OGが1992年3月より、短期緊
急派遣で再びバングラデシュへ赴くこととなった。
わずか1か月半の滞在であったが、22名はシェルターの建設に適していると思わ
れる調査活動を行った。この調査は後の約2千箇所サイクロンシェルター建設に役
に立ったことと思われる。

・話しは青年海外協力隊にも戻るが、バングラデシュへ派遣は1973年8月から
始まる。
今まで男性740名、女性524名、計1,246名の隊員たちが派遣されて来た
。しかしながら、ご存じの通り、2016年7月1日に起きたダッカ・テロ事件の
より、隊員たちはバングラデシュから引き揚げており、いまだに再派遣の目途はた
っていない。発展途上国の治安は不安な部分がある。それでも親日的なバングラデ
シュの国民性の中で、我々は大きな問題に直面することもなく、活動続けてきた。
その国民性は変わらないものと信じている。
今はただ、青年海外協力隊隊員の再派遣が行われることを願って止まない。

青年海外協力隊OB 佐藤利哉

■5)『日本とバングラデシュの『絆』
― Jalal:二つの国民の心を結んだ人 ―』        理事:太田清和

Sheikh Ahmed Jalal。氏を知る日本バングラデシュ協会の会員は、少なくないであ
ろう。とはいえ、知る会員は少なくなり、知らない会員が増えていく。

1.Sheikh Ahmed Jalal氏とは?
(1) 氏は1940年頃、カルカッタ近郊に生れた。1947年の印パ分離独立の混乱にあっ
て一家はダッカに移住。1958年頃、日本に国費留学生として留学、東京大学に学ん
だ。当時、NHK海外放送では、ヒンディー語とウルドゥー語の放送が行われていた
が、ベンガル語はなかった。そこで氏は、ベンガル語放送の開設に向けて運動を起
こし、1961年に開設されると、10年間にわたり、ベンガル語放送のアナウンサーを
務めた。
(2) 1970年11月、東パキスタンをサイクロンが襲った。早川崇議員がパキスタン大
使館に対し、被災状況の説明を日本語で求めた。パキスタン大使館は、日本語に長
けた氏に説明を依頼した。11月22日、氏は早川議員に面会、説明を行った。日本と
バングラデシュの『出会い』である。翌23日、早川議員達は、渋谷ハチ公前広場で
募金キャンペーンを開始した。
(3) 1971年3月26日、パキスタン内戦が始まると、東パキスタン出身の学生約20名
は、駒場の留学生会館に集まり、バングラデシュ独立を支援すべく『バングラデシ
ュ協会』を結成した。学生達と日本人ベンガル研究者達との協議の後、4月11日、
駒込のアジア文化会館で、奈良毅東京外国語大学助教授の下、『日本ベンガル友の
会』を設立した。『協会』はその傘下に入り、学生達は、パキスタン大使館の監視
の目から身を隠した。『日本ベンガル友の会』は、人道的な難民支援と政治的な国
民啓蒙の両面からキャンペーンを進めて行った。
また氏は、バングラデシュ暫定政府より、日本での秘密連絡員に指名された。藤原
岩市(陸軍F機関を率いインド国民軍創設に尽力)氏などから助力を得た。その一
つに、チッタゴン港での爆破ゲリラ工作のため、海上自衛隊からのチッタゴン港の
水深測量図の入手がある。
7月15日のニクソン訪中発表を受け、8月には印ソ条約が締結。国際政治も大きく動
いた。印軍が、武装ゲリラの支援を得て、電撃作戦により、12月16日にダッカを攻
略した。
1972年2月10日、日本はバングラデシュを承認、外交関係を開設した。早川議員か
ら内報を得て、『日本ベンガル友の会』のメンバーは、一番町17番地のマスウッド
一等書記官(71年11月日本政府に亡命を申請、特別在留許可を得る)の居宅に集合
した。
一同は、積雪2cmの庭で、バングラデシュの国旗を掲揚し、国歌『わが黄金のベン
ガルよ』を斉唱した。そしてマスウッド夫人手作りのベンガルカレーを賞味し、喜
びを分かち合った。
(4) 氏は、バングラデシュ大使館が開設されると、外交官として採用された。73年
のムジブル・ラーマン首相の公式訪日、78年のジアウル・ラーマン大統領の国賓訪
日で通訳を務めた。また77年のダッカ・ハイジャック人質事件では、空港管制塔に
詰め、犯人達と通訳などを行った。早川日本バングラデシュ会長の訪問では、いつ
も同行・通訳を行った。96~97年、在京大使館公使も務めた。

2.『バングラデシュ独立における日本の役割』を著わす(2002年)
(1) 筆者は、2000~02年、バングラデシュに公使として在勤した。2002年は外交関
係開設30周年。大使館は、祝賀行事を幾つか組んだ。
(2) その一つが、同氏の『バングラデシュ独立における日本の役割』の著作/出版
である。国際交流基金のフェローシップと出版助成の両スキームを活用して支援し
た。日本側受入れ先は、恵泉女学園大学の大橋正明先生。
(3) 氏は、2001年8月に来日。故早川議員宅を弔問し。仏壇に深々とお参り。そし
て1971年当時の日本の『友人達』を訪ねていく。奈良毅東京外国語大学助教授、吹
浦忠正国際赤十字東パキスタン駐在代表、桐生實アジア経済研研究所員(肩書は何
れも1971年当時)、そして街頭で募金運動を行った会社員、女性教師達など。日本
の市民達が、バングラデシュの独立への過程で、暖かい支援を差し伸べたことを、
一つ一つを振り返っていく。

3.日本国民の『バングラデシュに支援を!』の運動(Jalal氏の論考)
(1) 事態の劇的な展開
どうして、日本の国民が、バングラデシュの独立に支援を差し伸べたのか?
日本のメディアが、東パキスタン/バングラデシュに同情的な報道を行ったことが
大きい。
①まず、70年11月のサイクロン。約20万人が犠牲となったというニュースに
、国民が驚き、東パキスタンに注意を向けることとなった。
②次いで、12月の制憲議会選挙。パキスタンを東西に2分する選挙結果とな
ったため、国民がパキスタンの政治(東西格差と民主政治)への理解を深めるよう
になった。
③しかし、何といっても衝撃的であったのは、3月25日夜、パキスタン軍に
よる残虐な武力弾圧。市民に多数の犠牲者が出たことから、国民世論の方向が定ま
った。
④さらに、1,000万とされる難民の大量流出。コレラ禍など悲惨な状況に国
民は心を痛めた。難民問題の解決には「自発的に帰還できる政治状況が必要である
」と誰もが考える。
天災から、選挙、政治抗争、武力弾圧、大量難民、軍事作戦と、事態が劇的に展開
していくに従い、国民が『かわいそう!』から『いかなる解決策があるか?』へと
考えを深めていくこととなった。日本国民が『バングラデシュの誕生』を学ぶ、学
習プロセスであった。
(2) ベンガルへの共感
日本国民の『バングラデシュに救援を!』の運動は、英米にはない特色があった。
英米では数千人~数万人の大規模な、バングラデシュ支援の集会がみられた。これ
らは、英米に多数住むベンガル人達が中心となり開催されたものである。
日本では、日本人自身のイニシャティブにより、支援活動が展開された。政治家、
学者から一般市民に至るまで自発的な盛り上がりを見せた。『ベンガルへの共感』
が、日本人の琴線に触れ、心を揺さぶった。
① 第1は、タゴールと岡倉天心の友情。早川議員は学生時代、タゴールの詩
に憧れていた。
② 第2は、チャンドラ・ボース(インド国民軍司令官)とアジア主義
③ 第3は、パル判事と極東軍事裁判。
タゴール、チャンドラ・ボース、パル判事は、いずれもベンガルの出身。日本国民
の間で尊敬と共感を集めていた。

4.スティッカー: 『絆』のシンボル
(1) 2003年春、筆者の次の在勤地ウィーンにJalal夫妻が訪ねてきた。夫妻で、世
界の想い出の地を旅しているという。氏の体力は衰え、身体からは生気が失せてい
た。氏は「ついに出来上がった」と、1冊の書籍を取り出し、表紙を開け、見開き
に謝辞を記した後、筆者に渡してくれた。
(2) 筆者より、「この表紙の図柄は何でしょうか?」と尋ねると、氏の身体に精気
が一気に蘇った。「この2つの国旗を組み合わせたスティッカーは、街頭で1枚100
円。バングラデシュ難民への募金を募ったものです。募金者にも、車やオートバイ
に貼ってもらい、救援を求めるアピールに参加してもらいました。」。さらに氏は
、目を輝かして続けた。「このスティッカーこそが『日本とバングラデシュの絆』
のシンボルなのです!」
(3) しばらく後に、氏の訃報に接した。

2021年にバングラデシュ独立、2022年に外交関係樹立、50周年を迎える。
50周年を記念して、日バ協会も、何かを行いたい。それは何がよいだろうか?
皆さんからのご意見を歓迎したい。

バングラデシュに支援を!

■6)『イベント・講演会のご案内』

□【ドキュメンタリー&トーク】「ロヒンギャの証言 -無国籍であるということ」
https://www.mdm.or.jp/news/10706/
(世界の医療団(認定NPO法人) 2018年7月26日)

■7)『事務連絡』

会員情報変更届のお願い:
事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住
所変更、メールアドレスが変更されました場合はinfo@japan-bangladesh.org
<mailto:info@japan-bangladesh.org> まで
お知らせ下さるようお願い致します。

本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ
勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会

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