日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)『日本バングラデシュ協会メルマガ49号会長メッセージ
  ―バングラデシュにおける「スタートアップ」・ブームの到来―』会長:堀口松城
2)『日本とバングラデシュの発展のために』   国際人材育成機構 会長:栁澤共榮
3)『バングラデシュと私』(第二部)      大阪外国語大学名誉教授:溝上富夫
4)『変わるバングラデシュ:時は流れて』    フェリス女学院大学教授:木曽順子
5)『第二回日本ベンガルフォーラムを開催して』  東京外国語大学准教授:丹羽京子
6)『イベント・講演会のご案内』
7)『事務連絡』

■1)『日本バングラデシュ協会メルマガ49号会長メッセージ
    ―バングラデシュにおける「スタートアップ」・ブームの到来―』
                                会長:堀口松城

1.去る7月13日、IT人材派遣会社が、JETROや在京バングラデシュ大使館等との共催の
下に「バングラデシュ進出セミナー」を開催し、いくつかの大変興味深い講演が行われ
、急速に変わり始めたバングラデシュの現状に対する認識を新たにしました。
 先月の本協会メルマガ「会長メッセージ」でもご紹介した、JICAの高橋課長による講
演の中で、近年、急速に発展しつつあるバングラデシュ経済を、マクロ経済的視点から
捉えた場合の今後の方向について、バングラデシュは、一人当たり国民所得が2016年で
1,330ドル(2017年は1602ドル)に達したが、他国の例でも1,000ドルを超えると成長が加
速化される傾向にあること、さらに人口ボーナス期が今度40年は続く見通しであること
から、今後バングラデシュは、外国企業の進出等による生産拠点としてのみならず、新
中間層の拡大による国内市場としても大きな成長が期待されることが指摘されていまし
た。

2.かかる見通しの中で、今回の「バングラデシュ進出セミナー」においても、現在バ
ングラデシュで起こりつつある目覚ましい発展ぶりについていくつかの興味深いお話が
ありました。なかでも、JETRO企画部の鈴木隆史事業推進主幹から「台頭するスタート
アップ」と題する以下の興味深いお話がありました。急速に変わりつつあるバングラデ
シュの実態を知る上で興味深いものがあるので以下、ご紹介します。(なお、鈴木主幹
には、日バ協会発足以来、理事として日バ協会の発展に多大なご尽力をいただきました
が、この度、インド、ベンガルールの所長に栄転され、数日前着任されました。これま
でのご貢献に厚く感謝申し上げるとともに、今後とも健康にご留意の上、新任地でのご
活躍をお祈り致します。)
(1)一人当たり国民所得の急拡大に伴い、中間層がボリュームゾーンとして台頭し、
質の高い製品やサービスを志向するようになり、このようなニーズに対応すべく、2015
年、曖昧であった各種課税のベースとなる恒久的施設(PE)や、ベンチャー・キャピタ
ル(VC)が制度化され、国内リスクマネー市場拡大への道が開け、ベンチャー企業が新
たな資金調達手段を得た。
(2)国策である「デジタル・バングラデシュ」を旗印に、通信インフラ整備が進めら
れ、また、IT関連企業には2024年までのタックスホリデー等潤沢な恩典が付与された。
(3)ソーシャル・ビジネスの聖地と言われるバングラデシュには、社会問題解決を目
指すNGOが数多くあり、内外企業家の関心を集めているが、BOP(ピラミッド底辺層)相手
に、ニーズ把握や事業収益化のノウハウや経験が集約され、途上国型イノベーションが
実践されている。
(4)高等教育ブームが到来し、5年で40大学が新設され、学生数は40万人増加した。
英語による海外の情報や技術のキャッチアップが加速し、また、欧米で教育を受けた富
裕層も、帰国組が海外投資家とバングラデシュのつなぎ役を担っている。
(5)台頭するスタートアップの実例
 ① 教育:高等教育や仕事へのアクセス難を改善するため、Coder’s Trustは、オンラ
インのITスキル教育、ローン提供、フリーランス業務の斡旋サービスを提供。
 ② 教育:Onnorokomは、理科系教育に特化したベンチャー。数学、物理のオンライン
事業から小学生向けの付録付き教材迄手掛ける。
 ③ 健康:Medicare Japanは、増加する非感染症疾患に対応するため、デジタルやク
ラウド技術を医療に導入することで、予防医療や遠隔治療の普及に貢献。
 ④ 環境:深刻なごみ問題を改善すべく、BPCLはPETボトルのリサイクル・ビジネスを
立ち上げ。ゴミの収集人や仕分け人を組織化し、効率的な原料調達を実現。
 ⑤ 衛生:地下水のヒ素汚染と雇用の創出に対応するため、Drinkwell は農村コミュ
ニティで、水浄化ビジネスに係わる関係者のネットワーク化を支援。
 ⑥ 役務:Shebaは無数にある小規模専門業者のマーケット・プレイスにより、便利屋
サービスを提供。品質保証や顧客満足管理で、都市中流層で市場拡大。
 ⑦ 食品:深刻な農薬汚染への意識向上を受け、Direct Fresh は契約農家や自家菜
園から無農薬の食品を調達、都市部の上流層向けにデリバリー事業を開始。
 ⑧ 輸送:リアルタイム渋滞情報を手掛けるGoBDは、最適な都市輸送サービスを提供
するため、ラストマイル・デリバリーを開始。Eコマース需要にも対応。
 ⑨ 金融:送金・決済需要や現金所持リスクに対応するため、bKashは携帯電話を使っ
たバンキング・サービスを開始。出稼ぎ労働者や買い物客に利用されている。
 ⑩ EC: Dam.com.bdは、バングラデシュの価格比較サイト。正規品のみを扱い、契
約店の在庫管理からホームデリバリーまで行う。乱立する流通・販売店の競争と差別化
に後押し。

3.最近ダッカから帰った友人の話しでは、食料や雑貨のオンライン・サービスも急速
に普及しつつあるよしです。これからバングラデシュが、どのくらいの速さで、どう変
わっていくか、大きな楽しみです。


■2)『日本とバングラデシュの発展のために』
                  国際人材育成機構(アイム・ジャパン)
                   http://www.imm.or.jp
                  会長:栁澤 共榮(やなぎさわ きょうえい)

1.国際人材育成機構と外国人技能実習生
 当機構は、外国人技能実習生の受入れを始めて、今年で25年を迎えます。
 受入れ国は、受入れ開始順に、インドネシア・タイ・べトナム・バングラデシュ・ス
リランカです。
 いずれも、送り出し国政府と直接協定を結んでの受け入れです。これらの国々から技
能実習生を受け入れている監理団体は、日本全国数多くありますが、政府が直接送り出
す実習生を受け入れている団体は、日本全国でも当機構のみです。

2.バングラデシュからの受入れ
 バングラデシュ政府とは、2017年3月に協定を締結し、同年8月から同国実習生の受入
れを開始しました。
(1)実習生達は、日本へ入国してくる前に日本語と日本の風俗習慣を、8カ月間にわ
たり勉強します。その間に必要とする主な費用はバングラデシュ政府が負担します。
日本人は、学校で英語を6年間学んだとしても、英語での会話はほとんどできないとよ
く言われています。8カ月間の勉強だけでは日本語での会話ができるものかと、首を傾
げる方も多いと思いますが、6年間も学校で英語を習った我々とは比較にならないほど
上手に日本語を話すまでに上達します。小学校から英語を学ぶ外国語修得能力からの違
いなのでしょう。
(2)バングラデシュはアジア最貧国の一つとも言われています。技能実習制度を利用
して日本で日本人の働き方を一定期間学んで帰国し、祖国で起業をすれば、そこで雇用
の機会が生まれます。そうなれば、その家族もその恩恵を受けることができます。起業
する実習生が増えれば増えるほど、彼らの力で祖国を発展させることができます。その
国の経済発展は、その国の人々が、その人々の力によって行われなければならないと私
は考えています。
(3)ある時、日本で技能実習中のバングラデシュ技能実習生からバングラデシュ政府
に手紙が届きました。
『政府とアイム・ジャパン(当機構の略称です。)のお陰で、8年間穿き続けたズボン
を新しいものに買い変えることができました』と御礼の内容でした。ずっと履き続けて
いた日本円で約800円のズボンを買い替えることができたそうです。 

3.バングラデシュの発展はバングラデシュの国民の力で
当機構が、25年前に受入れを開始したインドネシアでは、既に7千人を超える元実習生
達が起業し、社長になっています。
バングラデシュの発展はバングラデシュの国民の力によって行われるべきです。
 技能実習制度は、一定の分野で一定の期間、人数についても一定の制限を設けて、日
本で学んだ技能技術を祖国へ持ち帰らせるという原則を基に創設された制度です。学ん
だ技能技術を祖国で活かせるかどうかは、その祖国が置かれている現状にもよりますが
、世界一流の日本の労働慣行を持ち帰って、それを活かすことを忘れずに起業すれば、
必ずや祖国の発展に繋がるはずです。

4.外国人技能実習制度を実のあるものに
25年前に創設された外国人技能実習制度は、制度を悪用されるケースばかりがクローズ
アップされてきました。
(1)技能実習生を保護することを目的に一昨年に成立した新しい技能実習法が昨年十
一月に施行されました。
 制度の正しい運用と制度の拡充を目的にした新法です。
 罰則も明確化し、制度を正しく運用していけば、受入れ可能な期間や受入れ可能人数
枠を緩和されるなどの拡充策も講じられました。
(2)しかし、その新法の舌の根も乾かぬうちに、更に新しい在留資格を設けて外国人
材を労働力として活用して行こうとの話が出て参りました。
日本に居住する期間を延ばせば彼らが手にするお金が増えることは間違いないでしょう

 しかし、それで祖国の発展に繋がると言えるのでしょうか。
(3)私は制度の創設期ら今日まで、微力ではありますが、制度自体の策定等に関わっ
て参りました。
実習生送り出し国の経済発展と、我が国の社会の健全な発展という、双方の国にとって
ウイン・ウインの結果がもたらされる、外国人材を上手に活用できる制度は、外国人技
能実習制度しかありません。
今後も当機構はその制度を正しく運用し、我が国の治安悪化の防波堤で有り続け、日本
とバングラデシュ、両国民の笑顔のために全力を注いでいきたいと考えております。

■3)『バングラデシュと私』(第二部)    大阪外国語大学名誉教授 溝上富夫

【編集者注】溝上先生は、1972年末~73年初め、『日印タゴール協会』が実施したイン
ド・バングラデシュ短期研修旅行に参加し、独立後ほぼ1年を経たバングラデシュを初
めて訪れた。(として、第一部を終え、これから第二部に続く)

 ダッカ大学では学生たちから大歓迎を受けた。ダッカ大学の構内の広さと教員用のフ
ラットの広さにも驚いたものだが、そのフラットが独立戦争の悲劇の舞台のひとつとな
ったことを聞いて胸が痛んだ。パキスタン軍による大虐殺はダッカ大学の知識人を狙っ
て行われたもので、ダッカ大学の教員・学生合わせて50人ほどが犠牲になったという。
犠牲者の死体が埋められたというグランドに立って頭を垂れた。ベンガル語学科の事務
室には、歴代の主任教授の写真に加え、この殺戮の犠牲となった2人の当学科所属の学
生の遺影が飾られていた。大学の構内には、戦没者を悼む記念碑が建てられていた。宿
泊した教官・学生センターで、学生達が歌ってくれた、タゴール作詞・作曲の「アマル
・ショナル・バングラ」という本来のどやかな調べの国歌が、この時ほど力強く聞こえ
たことはない。まるで、バングラ民族の魂のように響いたのを忘れない。ベンガル語学
科から贈られたベンガル語の書籍を手に、今後のベンガル語研究の使命と重要性をかみ
しめて帰国したのを覚えている。私はその時の印象を、1973年2月24日付の朝日新聞夕
刊の文化欄に寄稿している。

 しかし、その後、インドとパキスタンでの学術調査にエネルギーを注がれたとはいえ
、2回目の訪問が10年あまり後の1984年末から1985年初めになってしまったのは遺憾で
あった。この時は、かなり庶民の生活も安定しているようだった。この旅行は、1960年
代にコルカタの統計研究所で統計学を教えておられた関係でベンガル文化にご造詣の深
い大阪市立大学の森本治樹先生とご一緒した。今回は地方へも足をのばした。ダッカか
ら郊外のショナルガオン見物後、ナラヤンゴンジュ港から人気の外輪船で一晩かけてク
ルナまでの船旅を楽しんだ。下段は庶民の通常の交通手段だが、上段の一等船室はベッ
ドもあり、食事もとれて贅沢な旅だった。注文した外国製の缶ビールの値段が15タカと
いうのは、舟で働く労働者の一日の賃金だというので、なんだか申し訳ない気持ちだっ
た。そこからインド国境に近いジョショール経由で、ふたたびダッカに戻り、そこから
特急列車でチッタゴンを訪れた。チッタゴン大学のベンガル語学科を訪問後、少数民族
チャクマ族の住むランガマティ地区を訪れて、美しい湖の畔にあるホテルに一泊した。
チャクマ語を話す人を紹介してもらった。景色は美しかったが、この地域はしばしば少
数民族の反政府テロがあるとの理由で、バングラデシュ軍の兵士があちこちに立って、
警戒していた。ランガマティからチッタゴンとコミラを経てダッカに戻り、今度は鉄道
で、インドとの国境の駅ドルショノまで行き、インド側の国境の駅ゲデまで、線路沿い
に数キロを徒歩で国境を越えるという大冒険をした。双方の国のポーターにスーツケー
スを運ばせたとはいえ、静かな森に囲まれた黄昏時、ジャッカルとおぼしき鳴き声を聞
きながらとぼとぼと線路に沿って歩くのは、不気味だった。森本教授という年配の頼も
しい同伴者がおられたので、実行できたのである。ゲデ駅に着いたときは、もう真っ暗
で、夜行列車でコルカタヘ帰りたかったが、駅のすぐそばにあるゲデ警察から、外国人
の安全性に問題があるので、朝までここに滞るようにというアドバイスを受けたものの
泊まる所もないので、ゲデの警察署の庭で焚火を楽しみ(12月なので夜は結構寒かった
)、机の上に寝袋を広げて夜空を眺めながら夜を過ごすというおまけまでついた、年齢
の割には大変な冒険の旅行だった。

 1985年の12月には、1970 年の東パキスタン時代と同様、バンコックからダッカに入
国した。そしてバングラデシュへの初めての個人旅行であった。今回はダッカを中心と
してまず、ラジシャヒを訪問、ラジシャヒ大学長とベンガル語学科長アブドゥル・マン
ナン教授と会見、大学のゲストハウスに一泊した。マンナン教授は、故奈良毅教授と共
に、当時大阪市内にあった大阪外国語大学を訪問して、講演をいただいたことがある。
気さくな人で、酒を飲み(しかも豚肉まで食べると私に白状するという)異例のイスラ
ム教徒だった。そして、その言い訳が面白かった。人はクラーンに何度も書かれている
「嘘をつくな」という教えを平気で破っているくせに、ただの1箇所「酒を飲むな」と
書いてある所だけ何故厳格に守るのか?豚肉については、当時はそれで伝染病が流行っ
たが、今の豚肉はきれいに消毒されているので安心というものである。前者の言い訳は
リベラルなイスラム教徒なら笑って肯定するが、後者の豚肉擁護論はさすがに行き過ぎ
だと批判する。

 そして再度、チッタゴン大学を訪問、前回知り会ったベンガル語学科のアハメド・ア
ラーム講師と再会、その後はじめてコクスバザールを訪問、なんとなくミャンマー的な
雰囲気を味わった。パキスタンのペシャーワルがなんとなく、中東の雰囲気を漂わせて
いるとすれば、ここコクスバザールは、なんとなく東南アジアの雰囲気を漂わせるとこ
ろだった、当時はまだロヒンギャ問題は存在していなかった(あったのかもしれないが
、表面化していなかった)。

 そして、3年連続の訪問となる1986年12月にもダッカとチッタゴンを訪問しているが
、このときは明確な目的があった。2年前から出版の構想を練っていた『文化紹介ベン
ガル語中級会話集』のなかのバングラデシュに関する5章(ダッカ訪問、チッタゴン訪
問、コクスバザール訪問、ランガマティ訪問、ダッカ~クルナ間の船旅)の執筆協力者
のチェックを受け、コルカタで印刷することであった。当時はまだベンガル文字のフォ
ントを用いてコンピューターに入力するのは日本では不可能だった。やがて、本書は
1988年に大学書林からカセット付きで上梓されることになるが、それも今では絶版とな
った。

 1986年の夏季休暇に箕面市の大阪外国語大学を会場として、東京外国語大学アジア・
アフリカ言語文化研究所主催の150時間「ベンガル語研修」を頓宮勝氏とインド人のイ
ンフォ―マントとして、上記の共著者となるS.P.ラエ氏と一緒に担当した。インフォー
マントはインド人だったが、バングラデシュのベンガル語や文化にも極力触れた。6名
の受講者の中から、バングラデシュの民族学の専門家が輩出した。その頃が、私がバン
グラデシュとベンガル語に最大の情熱を傾けた頃だった。大阪外国語大学に初のベンガ
ル語講座設立という夢をもっていた頃である。しかし、いくら申請しても文部省(当時
)はなかなか認めてくれないし、学内的にも完全な意見の一致をみていたわけではない
ので、私の夢はほぼ実現不可能とあきらめていた。一方では、東京外国語大学アジア・
アフリカ言語文化研究所の共同研究員としてインドのプネー、マイソ-ル、マス―リー
等への中期出張や、シカゴ大学客員研究員とかの仕事でインドや米国に滞在することの
方が多くなり、特に1997から2007年の定年退職までは毎年、インドやイギリス等で、ヒ
ンディー語劇の公演に力を注いだので、ますますバングラデシュとの関係が遠のいてい
ったのは残念だった。

(次号 第三部へ続く)

■4)『変わるバングラデシュ:時は流れて』   フェリス女学院大学教授:木曽順子

 バングラデシュとの関係で一文をとのお話を頂戴しながら、実は少し躊躇したのは、
この3年バングラデシュに足を運んでいないこと、そして研究面ではインド調査・研究
に時間をとられ、バングラデシュ研究が2009年の論文執筆以降、進んでいないからであ
る。私が最後にバングラデシュ経済について書いたのは、渡辺利夫編『アジア経済読本
』(東洋経済新報社)という書籍の1つの章としてだが、この本は、1994年の出版から
改定を重ねて4版まで刊行されてきた。4回にわたって私はバングラデシュの章を担当し
てきたが、サブ・タイトルは、「自立経済への道のり」(1994年)、「求められる開発
の新地平」(1998年)、「変化の鼓動」(2003年)、そして「豊かさへの挑戦」(2009年)
と変わった。経済政策とマクロ経済の変化、農工業や貿易の発展、直接投資の動向、社
会開発の進展など基本情報をまとめながら、バングラデシュがその時々置かれているス
テージを私なりに表現したいと思い、つけたサブ・タイトルである。2017年度(*1) の
対前年成長率7.24%などその後の好調な経済成長、世銀定義で最貧国を脱したという
2016年の報告、同時に露呈した様々な矛盾や悲劇を思うと、今また第5版に向けて書く
ならば、サブ・タイトルはさらに異なるものになるのだろう。数年前から計画されてい
たバングラデシュ調査のプロジェクトが、残念ながらペンディングになっているのだが
、実施の運びになれば是非そこで新しいバングラデシュ経済の可能性を探究し示したい
と考えている。
 さて、私が在バングラデシュ日本国大使館の専門調査員としてバングラデシュに赴任
したのは、1987年3月であった。そして2年間ダッカに滞在した。赴任当日、大使館で
着任の挨拶を済ませたあと、ホテルに向かうジープの窓から見えたファームゲートあた
りの店々に輝いたオレンジ色の電球の光は、今も鮮明に目に浮かぶ。私にとっては、
1980年に20日ほどインドを旅して以来の南アジアであった。ようやくここに来た、ここ
からだ、としみじみ感じたものである。
 私が滞在した2年間も、バングラデシュの社会と人々は、様々な過酷な状況に直面し
た。1987年は40年ぶりと言われる大洪水に見舞われた。そして翌年の大洪水はさらに当
時史上最悪と言われ、国土の4分の3が水没した。空が晴れても水嵩が増えつづけ、ダ
ッカでも冠水する場所は多かった。幾度か訪ねていたスラム地域は流され、新聞で報じ
られる村の暮らしも、間近に見る人々の暮らしも過酷を極めた。洪水が長引く中、感染
症が広がり、水が溢れていても飲める水はなかった。ダッカ空港も冠水の影響で閉鎖さ
れ、閉塞感が漂いもした。それでも水の中をリキシャで大使館本館(その頃はボナニに
あった)に向かう途中、水深が深くなる所では子供たちがワッと集まって後ろからリキ
シャを押して駄賃をもらい、大使館近くでは、エアポートロードから横道に流れ込む水
の中、少年たちがワイワイと騒ぎながら池や湖から流れてきた魚を捕まえようとしてい
る。うなだれ、悲嘆に暮れるばかりの異邦人の私は、その姿に少し励まされた。
 また、政治的にも混乱を極めた。1987年には大規模なハルタルを含む激しい反政府運
動が展開、同年11月末には国家非常事態宣言が発令され、翌年、混乱の中で総選挙が実
施された。ダッカの街は不穏な空気に充ち満ちていた。しかし、当時の緊迫した社会・
政治情勢は、まさにその後に続く政治的民主化への道の一階梯となる。
 経済開発はまだ緒についたばかりだったと言ってよい。農業への依存度は高く、農業
の対GDP 比は1989年度で43.2%を占めていた。87年度の国内貯蓄率はわずか3.5%、投
資率も12.4%である(2017年度は各26.1%、30.3%)。また、バングラデシュの外資政
策は、独立直後の禁止的ともいえる厳しい規制策から、緩和、そして奨励策へと急転換
していたが、当時の工業省工業局の資料によると、同局に届け出られ認可された件数(
輸出加工区=EPZ分は含まない)は、1975年度からの約13年間でわずか146件にすぎなか
った。しかも認可取り消しなどにより、当時実際に稼働していたプロジェクトは88年度
当時で56件を数えるのみであった。またチッタゴンEPZの1990年2月までの認可件数は61
件、稼働企業数は24件だった。アパレル(ニット製品を含む)は今や輸出額の80%程度
を占めるが、88年度は35%。それでも同産業は輸出の拡大に大きく貢献し、ジュート(
製品と原料)に依存してきた輸出構造を大きく変えつつあった。またアパレル製造工場
数も急増していたが当時はまだ700を超える程度で、今のようにおよそ5000を数えるこ
とになるなど、その頃は夢のような話だった。厳しい自然環境と政治状況の中、経済面
でも変化の兆しがわずかに見え始めた時代だったと言えるだろう。
 赴任中は、同国の研究機関や各官公庁を資料収集に訪ね、コミラ、ラジシャヒ、クル
ナ、チッタゴン等では工場や農村などを見て廻って、拙い報告書を書かせていただいた
。また休みの日には、ショドル・ガートのあるオールドダッカや市場を歩き回った。あ
の時代でも幸い女性であることの不自由さを思い知らされることはあまりなく、バング
ラデシュの人々と恵まれた職場に助けられて過ごした2年だった。
 さて、私は1989年に帰国したが、その翌年ダッカのバングラデシュ人一家の家に1カ
月ほど下宿をした。その家の家事使用人として働いていた少女ナシーは、11歳くらいだ
っただろうか。小さな身体で跳ね回るように快活に、驚くほどよく働いた。洗濯、掃除
、料理の手伝い、食後の後片付けなどをこなし、夜は居間の片隅に蚊帳を下げ、ソファ
の足元で文字どおり泥のように眠っていた。靴紐の結び方が悪いといってぶたれること
もあったが、その家の幼い息子が我が儘を言ってナシーをぶつと母親はすごい剣幕で息
子を叱りとばした。朝、ナシーの髪を三つ編みにするのも彼女だった。ある日、一家が
留守で私と二人きりになったとき、田舎に住む家族の話をした。悲しくなって、つらく
なってナシーは泣いた。しかし2年ほど経って訪ねたときには、里帰りすると家族が自
分に何かと期待するのであまり帰りたくないと言い、さらにその2年後くらいだろうか
、ナシーは村のリキシャ・ワラーと結婚するために田舎に帰ったと聞き、そのまま会え
ずにいた。
 4年前の2014年、ナシ―に会おうとマイメンシンに行き、再会できた。小柄な身体は
そのままで、可愛らしい娘さんを連れて、村の私の滞在先まで会いに来てくれた。なか
なか子供ができず一人娘だという。あの頃のままの笑顔を見せてくれながらも、レンタ
ル・リキシャ(この時聞くと、ベビータクシーとのこと)運転手をしている夫の稼ぎは
少なく、とても貧しいと嘆いた。ナシ―の娘さんの将来はどうなるのだろう。それがバ
ングラデシュの未来だと言っていいだろう。次は家を訪ね、もっと話をしたいと思う。

<参考資料>木曽順子(1994)「バングラデシュ―自立経済への道のり」渡辺利夫編『ア
ジア経済読本』東洋経済新報社、The World Bank (2017) Bangladesh Development
Update: Towards More, Better and Inclusive Jobs, The World Bank、など。

(*1) 2017年度とは,2016年7月から2017年6月末まで。

■5)『第二回日本ベンガルフォーラムを開催して』 東京外国語大学准教授:丹羽京子

1.第二回日本ベンガルフォーラムの概要と成果
 6月24日に第二回日本ベンガルフォーラムが東京外国語大学で開催されました。
(1)今回のテーマを振り返りますと、まずカルチャー部門では「サリーを巡るベンガ
ルの伝統文化」と題してシュクリシュナ石井さんによる講演が行われました。石井さん
の語るサリーにまつわる思い出を通して、サリーという衣服の文化的な側面が伝えられ
ると同時に、学生をモデルにした着付けでは、80種類にも及ぶというその多様性の一端
に触れることができました。
(2)アクティビティ部門のテーマは「現場から考えるロヒンギャ難民問題」でした。
聖心女子大学の大橋先生によるこれまでの経緯と現在の難民キャンプの実情に関する講
演ののち、後半は解決に向けての「落しどころ」を探るという有意義なディスカッショ
ンが行われました。
(3)最後のリサーチ部門は「50年後に振り返るベンガルの農村社会―故原忠彦教授の
民俗誌再訪」と題して原先生の業績を振り返り、その今日的意義を探るものでしたが、
原先生ゆかりの研究者が6名登壇する充実したものとなりました。
 こうして振り返ると中身の濃い、また多様な内容を含んだフォーラムになったと言える
と思います。そもそもこの会の主旨は、研究者のみならず、芸術分野やNGOなどの活動
分野の方々をも含みこんで、ベンガルという場を共有するものが集うことにありますが
、今回もその主旨は達成されたと思います。

2.今後の課題
 参加者数は144名でしたが、うち110名を学生が占め、学生主体の会であったことが伺え
ます。学生が多いことは良いとして、もう少し一般の参加者も増やしたいと考えていま
す。いかにしてこのフォーラムを異なる分野のものの活発な交流の場にしていくかとい
うことが今後の課題となりますが、そうした観点から、フォーラム後の反省会ではいく
つかの提案がなされました。
(1)まずは広報のありようです。今回も様々なネットワークを通して広報を行いまし
たが、昨今では多くの研究会が開かれており、ひっきりなしに同種のお知らせが回って
きますので、そうした中に埋没してしまわない工夫が必要であることを痛感しています
。そのためにはただ通り一遍の広報をするのではなく、催しの内容にあわせて関係各氏
をお誘いする、近隣の大学や自治体に早くから働きかける、などの案が出されました。
(2)また、年に一度のフォーラムと個々の部門での活動の差別化をはかるのもよいか
もしれないとの意見も出ました。すなわち、年に一度のフォーラムでは一般の人や学生
を意識したプレゼンテーションを行い、個別の活動ではより専門的に掘り下げた内容に
する、といった工夫です。例えばリサーチ部門では、昨年11月に「シュンドルボン開発
の歴史を繙く」と題した研究会が開かれましたが、こうした個別の集まりでは存分にテ
ーマを掘り下げ、その代わり全体で行うフォーラムは、そうした研究会や様々な活動へ
誘う場として位置づけるというやり方です。もともとフォーラムは異分野の人の交流の
場を目指していますので、すべてが専門的になってしまっては趣旨に沿いません。それ
と同時に、専門家であっても新たな知見が得られ、満足のいくものでなければなりませ
ん。この両方を満たすものとして差別化を考えていくということです。
(3)フォーラムの開催時期も議題に挙がりました。一年は長いようですが、大学の長
期休暇や学会が多く開かれる時期を除くと、多くの人が参加できる時期は限られていま
す。今後はフォーラムを、例えば毎年6月最後の日曜日に開くと定めれば、参加者も運
営側も予定が立てやすいのではないかということです。
 以上はまだ検討段階ですが、フォーラムの参加者の輪を広げ、より意義のある会にし
ていくことが運営委員の共通の思いであることは間違いありません。

■6)『イベント・講演会のご案内』

□「バングラデシュにおける開発協力と避難民支援」(2018/8/23)
 http://www.med.jrc.or.jp/news/tabid/349/Default.aspx?itemid=450&dispmid=3009
 日本赤十字社医療センター 国際医療救援部

□日本最大級の国際協力イベント グローバルフェスタ2018 (2018/9/29,30)
 http://gfjapan2018.jp/
 NGO他諸団体が参加します。バングラデシュで活動するNGOも多数参加しています。

□ツーリズムEXPO ジャパン2018 (2018/9/20~23)
 http://www.t-expo.jp/
 バングラデシュ政府観光局(BTB) が出展します。

■7)『事務連絡』

会員情報変更届のお願い:
事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住
所変更、メールアドレスが変更されました場合はinfo@japan-bangladesh.org
まで
お知らせ下さるようお願い致します。

本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ
勤務時の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会

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