日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)『日バ協会メルマガ55号会長メッセージ
―ダッカ事件後の政府のテロ対策の目覚ましい進展―』    会長 堀口松城
2) 現地便り: 『人との縁』
双日株式会社 バングラデシュ事務所 所長 山本 英治
3)『地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その1 )   監事 伊藤隆史
4)『 早川崇は何故、バングラデシュに心血を注いだのか?』( 連載その2)
→早川崇は何故、バングラデシュの早期承認を熱心に働きかけたのか?
監事 早川 鎭
理事 太田清和
5)イベント、講演会の案内
6)『事務連絡』

■1)『日バ協会メルマガ55号会長メッセージ
―ダッカ事件後の政府のテロ対策の目覚ましい進展―』    会長 堀口松城

1.あのダッカ・テロ事件から2年半が経ちましたが、この2年半の間に、同事件で失わ
れた、7名のJICA専門家を始め多数の犠牲者の命を無駄にしてはならないとの日本政府
関 係者の決意のもとに、進められてきた国テロ対策は、ここ数年で次のような目覚ま
しい進展を遂げています。
先ず、外務省はシリアにおける邦人殺害テロ事件を踏まえ、2015年5月に「『在外
邦人の安全対策強化に係わる検討チーム』の提言」を作成し、特に邦人がテロの被害に
遭わないよう、①国民一人一人の安全対策意識と対応能力の向上、②国民への適時、適
切かつ効果的な情報伝達、そして③これらを着実に実施するため体制整備、の3点に重
点を置いて検討を続けてきました。
2.この検討内容は、ダッカ・テロ事件以降目覚ましい進展を遂げており、最近の具
体的な検討結果について、領事局邦人テロ対策室長(兼 経済局日本企業海外安全対策
特別専門官)の上田さんは、本年1月号の雑誌「時評」で次のように明快に説明されて
いるので紹介させて頂きます。なお、同対策室の仕事は第1に、テロ、誘拐、人質、ハ
イジャックなど特殊事案への対応であり、第2が広く海外安全に関する予防と啓発・情
報発信とされています。(なお、同室の英訳は、Terrorism Preparedness and
Response Division です。)
近年の短期渡航者は年1800万人を超え、海外に3カ月以上在留する邦人は135万人を超
えているが、多くはテロ、犯罪から身を守る準備を行わずに海外渡航している実態にあ
る。それ故、一人一人がリスクを知り、『正しく恐れる』ことが出来るよう、渡航先の
リスクに関する適時、適切な情報発信を行うことが外務省の重要な仕事となる。しかし
、通常のマニュアルによる啓発だけでは不十分なので、いろいろ工夫を重ねながら、取
り組んでいる。
工夫の第一は、2017年、『ゴルゴ13』(原作さいとう・たかお)とコラボして製作した
海 外安全対策マニュアル『ゴルゴ13X外務省』を、外務省海外安全ホームページ上でも
読めるようにし、また、これ迄12万部を無料配布し、さらに2018年4月には動画版も作
成して公開した。これは、多くの企業に社員研修等でも利用されている。
第二は、安全な旅のための便利ツール『たびレジ』で、海外に渡航する前に誰にも3
分位でオンライン登録して貰えれば、外務省から渡航先ごとの最新の各種安全情報をメ
ール受信できるサービスであり、自然災害などが発生した場合には、近くの大使館や総
領事館から安否確認をして貰えるサービス付きである。
さらに、このサービスを広く知って貰うべく2018年7月外務省と吉本興業が一緒にな
って「たびレジ」登録キャンペーンを推進した。
第三に、ISILは最近は弱体化したものの、欧米、アジア等でローン・ウルフ型のテ
ロ、即ち、単独で群衆の中に車で突入するなどのテロや、劇場やスポーツ施設などのソ
フト・ターゲットを対象としたテロも発生しており、引き続き警戒が必要である。これ
ら不特定多数を対象とするテロに対しても、『正しく恐れる』という観点からすれば、
誰でも予防的な措置をとることは可能である。タイミングに関して言えば、ダッカ事件
で言われていたように、ラマダン(断食月)の時期、特に金曜日の礼拝日の夜などはイ
スラム過激派がテロを起こすリスクは高まると言われており、また、場所についても宗
教関連施設や軍・警察施設はできるだけ避けるのが賢明である。これらの情報も「海外
安全ホームぺージ」や「たびレジ」で情報発信されている。
第四に、海外でのトラブルを避けるためには、当該国の文化や習慣、宗教面での基礎
知識も事前に知っておくだけでも一定の効果があり、自然災害や感染症のリスクなども
「海外安全ホームぺージ」や「たびレジ」で情報発信している。
また、海外で被害に会う人の95%は一般犯罪なので、国ごとにその一般犯罪はどのよ
うな傾向があるか知っておくことも大切であり、これらも同情報に含まれている。
第五に、ツアー旅行を利用する人たちのために、「たびレジ」がツアー・コンダクタ
ーをハブにしてツアー参加者に情報を伝えるようにしており、旅行会社各社とは「外務
省・トラベルエージェンシー連絡会」という会を定期的に開き、安全対策等につき情報
交換を行っている。
3.以上ご紹介した、ダッカ・テロ事件における犠牲者の貴重な命を活かすための同
事件以降のテロ対策の進展は大変心強く、関係者のご努力を高く評価するものですが、
バングラデシュ関係者としましては、目覚ましい発展を遂げつつある同国との人の往来
を含むさらなる関係発展 のためにも、昨年暮れの総選挙後の現地情勢をも踏まえた渡
航者情報危険度の、一日も早い見直しを期待する次第です。


■2)現地便り:『人との縁』 双日株式会社 バングラデシュ事務所 所長 山本 英治

「お前、ダッカ事務所の所長に決まったぞ」と上司から告げられたのは、2017年暮れも
押し迫る頃でした。2007/8年頃からバングラデシュには出張で来ていましたし、社
内でダッカ事務所設立の稟議が進んでいる話は聞いていましたので、何となく予感もあ
ったのですが、いざ「駐在」となると正直、色々と不安もありました。妻に相談した
ところ「お父さんがやりたいなら、頑張って来たら! お家の事は任せて。」と背中を
押してくれたので、翌日上司には「話を進めてください。」と回答し、社内の手続きが
どんどん進んでいきました。年明けには、健康診断を済ませ、予防接種を受け、社
内の各営業本部との引継ぎも進み、あっという間に出発の日も迫ってきました。
駐在準備が進んで行く中で、会社の先輩から「光波の神山さんと会ってみては」とのア
ドバイスを頂き、早速神山さんとお会いする事にしました。神山さんは、私が改めて
説明する迄もなく、現日本バングラデシュ協会の理事でいらっしゃいますが、旧日商岩
井OBで、光波にお勤めになってからはOP-SEEDバングラデシュの社長を長年お勤めにな
っておられました。神山さんからは、様々なバングラデシュの事を一から教えて頂き
、大変勉強になりました。
現在、双日マシナリー大阪にお勤めの坂田さんは、1970年代に旧ニチメンの駐在員とし
てダッカにご駐在されていましたが、その後もバングラデシュの仕事を長い間、続けて
おられます。坂田さんにも色々な方を紹介して頂きました。
双日は、旧個社(旧日商岩井、旧ニチメン)の合併後、海外事業所の再編の中でダッカ
、チッタゴン事務所を閉鎖しており、14年ぶりの事務所再開となりますので、1960年代
から諸先輩方が脈々と築き上げた人脈・ビジネスは細まっていました。又、事務所オ
ープン後間もなく行われた開所式の準備も、時間の限られた中で人脈を辿りながらご招
待客の方々にお声をお掛けし、かなり苦戦しましたが、お二人に大いに助けて頂きまし
た。
事務所設営では、清水建設の水品所長に助けて頂きました。どの会社に工事をお願い
したら良いか、どう管理したら良いか、進め方のアイディアが無かったのですが、水品
所長からとても良い工事会社をご紹介して頂き、又工事会社をウオッチして頂いたお陰
で、ラマダン休暇を挟んだにも関わらず、工期内に予算内でしっかりと工事を完了させ
ることが出来ました。事務所がOpenするまで自宅やホテルのロビー、車の中等を事務
所代わりにし、彼方此方さまよいながら仕事をしていましたので、立ち上げにより社員
も雇え、やっと本格的な活動を開始出でき、本当に助かりました。又、治安、Security
等に関する考え方、備え等に関しても大変ご丁寧にご教授頂き、事務所のデザ
インに取り入れさせて頂きました。
バングラデシュは、此処数年安定して経済成長を続け、言わば「高度経済成長」時代に
突入しています。今後日系企業の皆様の中でバングラデシュへの進出をご検討されて
いる方も多いと思います。進出に際しては色々とご心配もあると思いますが、僭越な
がら私の経験から言わせて頂くと、バングラデシュで仕事をされている日本人の皆さん
(或いはバングラデシュのお仕事のご経験が豊富な皆さん)が、困った事があれば、必
ず誰かが手を差し伸べてくれます。私自身、バングラデシュ・ビジネスでの先輩であ
る多くの方々に支えて頂き、いつの間にか不安はなくなっていました。又、駐在し
て改めて強く感じましたが、バングラデシュの皆さんは、本当に親日的で、チャレンジ
精神に溢れ、元気があり本当に働き甲斐のある、チャンスが溢れる国です。バングラデ
シュ進出をお考えの皆様の何かのご参考になれば幸いです。

■3)『地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その1 ) 監事 伊藤隆史

1.はじめに

私が、バングラデシュの仕事に携わったのは1984年からです。化学プラントの建設会
社に勤務し、バングラデシュで唯一の国産天然資源である、天然ガスを原料とするアン
モニア及び尿素化学肥料工場の建設に従事しました。チッタゴン尿素肥料工場(ダッカ
より南東約250 km、1988年稼働)の新規建設工事、ゴラサール尿素肥料工場(ダッカより
北東約50 km、1972年稼働)でのリハビリ工事(プラント寿命延長の為)を2回、そして
チッタゴンにてリン酸化学肥料工場(2008年稼働)の新設工事です。現地長期滞在は累計
するとチッタゴンに計5年、ゴラサールに計7年になり約12年になります。

その後、プラント建設会社を定年退職し、現在はプラントの運転継続に必要な機器、
予備品及びメンテナンス・サービスを供給する会社に勤務しています。現在でもバング
ラデシュの同じ化学肥料工場を客先として年に4、5回ほど訪問しています。いまでも過
去に自分が建設、メンテナンスに従事した工場の今後の健全な運転を維持・継続する為
に貢献ができるのは嬉しいかぎりです。

1980年代に赴任してから、私のバングラデシュの仕事に携わる以前に多くの先輩の方
々がゴラサール肥料工場で工場建設に従事し、工場建設を完成されたと伺いました。私
の1986年からの思い出を綴る前に、1960年代そして独立戦争当時にゴラサールにて汗を
流された先輩たちの苦労話を その1、その2 としてご紹介いたします。私の思い出は、
その3、その4として以下のとおりに構成しました。

『地方から見た思い出(その 1)』:1970年のゴラサール
『地方から見た思い出(その 2)』:1971年の独立戦争勃発前の現地脱出の様子
『地方から見た思い出(その 3)』:1986年のチッタゴン、1989年のゴラサール
『地方から見た思い出(その 4)』:1999年のゴラサール、2006年のチッタゴン

2.1960年代にゴラサール生活をされた方々の話

本寄稿を書き始めるに当たり1960年代に現地ゴラサールに勤務をされた方々にお話しを
伺いました。今からさかのぼること約50年前の1960年代後半には、既に多くの先輩の方
々が、わが国の海外プラント建設の黎明期に「汗の結晶」で建設された化学肥料プラン
トだったということがわかりました。
当時20才代後半のプロセス・エンジニアの吉田氏(後述、以降、敬称略)の赴任してい
たゴラサールは、国内産の天然ガスから化学肥料の生産を行う最新鋭の工場です。この
プラント建設会社は、当時東洋一の規模となる肥料プラント建設を契機として本格的に
海外プラントの建設に進出を始め、その礎となった工場でした。
建設時の苦労話を直接吉田に聞きました。吉田も仕事そのものの苦労は忘れたとのこと
であり、生活上の厳しい思いが、鮮明な記憶として残っているとのことです。バングラ
デシュは、国土のほとんどが熱帯モンスーン気候帯に属しており、AC(冷房機)は必需
品です。特に雨期の前の4月、5月は、ACがないと日本人には生活が苦しいものになりま
す。
吉田が、現地ゴラサールへ派遣されたのは、今からちょうど50年前の1969年になります
。その時は酷暑の4月でしたので、吉田のサイト暮らしの思い出といえば「ゴラサール
は、暑いところだった。」とのことです。当時のACは、窓に設置するタイプであり圧縮
機の音が大きく、価格も高く、注文してもなかなか納入されないものでした。その為、
宿舎居室の半数の部屋にしか設置することが出来ず、20才代の若者には、AC無し、1部
屋2人でした。さすが、暑さのピークのときは、天井ファンだけではどうしても寝るこ
とができずに、ゴザ、毛布、枕を持ってACの設置されているシニアの方の部屋の床で寝
ることもしばしばあったとのことでした。つらい思い出を懐かしく教えていただきまし
た。

3.東パキスタン独立戦争の勃発

(1)1971年3月:戦争前夜
メルマガの昨年11月号から本年1月号に当時ダッカにおられた古家様の独立戦争当時の
鬼気迫るご様子の寄稿がありました。東パキスタン州の州都ダッカでの経験談です。片
田舎のゴラサールからの脱出は、情報も少なく更に困難があったようです。バングラデ
シュ独立戦争は、東パキスタンが「独立宣言」をした1971年3月26日に突入しました。
その戦争勃発寸前に日航救援機にて、からくも東パキスタンから緊急脱出し帰国ができ
た渡邊氏(後述、以降、敬称略)及び今村氏(後述、以降、敬称略)に当時の様子を聞
くことが出来ました。
工場は1970年に完成し、生産保証運転も終了していました。渡邊は、運転・メンテナン
スのアドバイザリー契約での現地統括マネージャーとして1970年4月にゴラサールに赴
任しました。今村は、入社したのが1969年4月でしたので1年間の新入社員教育を終え渡
邊に遅れること2ケ月後の1970年6月に入社後初めての海外現場として赴きました。独立
戦争前夜の状況を渡邊、今村の記憶、および日誌記述などからいろいろ教えていただき
ました。ゴラサールの脱出の時は、建設現場からゴラサール駅にトラックで、そして夜
汽車でダッカ駅へ。その後は徒歩によるインターコンチネンタル・ホテルへの行進。日
航救援機によるダッカ脱出まで目まぐるしい日々であったことをお聞きしました。

<独立戦争、独立までの概略経緯及びゴラサールへ派遣された日本人の動き>
・1970年12月:総選挙が実施、人口で勝る東パキスタンのアワミ連盟が過半数を獲得。
・1970年1月:ヤヒア大統領、アワミ連盟、人民党の憲法制定交渉が不調。情勢不穏化

・2月下旬:治安悪化の為、総領事館より日本人への避難準備命令が発出。
・3月1日:ヤヒア大統領、3月3日開会予定の制憲議会を無期限延期すると発表。
・3月1日深夜:建設現場のゴラサールを脱出しダッカへ撤退する事を決意する。
・3月2日早朝:派遣員は、ダッカ駅経由にて、インターコンチネンタル・ホテルに徒歩
で向かう。
・3月2日:制憲議会の無期延期に反発し全業種での無期限ゼネストに突入。
・3月7日:シェーク・ムジブル゙ル・ラーマン党首が10万人の聴衆を前に歴史的な演説。
・3月9日:ホテルでの交戦の噂があり日本人は一時、総領事館に避難する。
・3月12日:日航救援機が飛来し、日本人のバンコクへの救出が始まる。
・3月13日:バンコクへの脱出が終了する。
・3月14日:救援機により日本人の帰国第1便が羽田に到着する。
・3月25日深夜:パキスタン軍が猛攻撃を開始。多くの殺戮が行われる。
・3月26日:言語弾圧、民間人の殺戮、総選挙結果の無視、等を理由に独立宣言。
・3月26日以降、内戦が本格化する。
・12月3日:パキスタンが総動員令を発令。インドが国家非常事態を宣言。第3次印パ戦
争となり、パキスタン軍とインド軍の全面戦争になる。
・12月16日:パキスタン軍は、インド軍に降伏。
・1972年1月10日:ラーマン党首がダッカに帰還。
・1月12日:バングラデシュの正式な初代内閣成立。ラーマン党首が首相に就任。
・1972年2月10日:日本がバングラデシュ国を承認し、11日外交関係国交が樹立。

2019年1月30日現在運転中のゴラサール尿素肥料工場(撮影:伊藤隆史)

 

(2)3月1日 / 建設現場ゴラサールからの脱出の決意
化学肥料工場は契約に従った生産保証運転は完了し運転支援の段階になっていました。
プラント全体の運転の前段階として、その時は周辺設備(用役設備)の運転をしていた
ところでした。3月1日の深夜12時に渡邊、今村は予告なしにたたき起こされ、アドミか
らの説明を聞きました。『ダッカにいるアドミ・マネージャーからの最新の連絡による
と東パキスタンのフリーダム・ファイターによる全土のゼネストが行われ、その後全て
の交通機関は止まる。明朝までにゴラサールを脱出しダッカに行かないと、今後ダッカ
に行くすべはなくなる。よって、明早朝のゼネストが始まる前にゴラサール駅からダッ
カ中央駅に行く汽車に乗ることにした。荷物は必要最小限にして直ちに総員現場を引き
上げる。』とのことでした。現場の周りはまだ平穏であり『現地にいた方が安全だ。ダ
ッカに行くまでが危険だ。』という意見が出たこともあり、すぐに全ての日本人が同意
したわけではありませんでした。ただ、早朝に出る夜汽車が最終便であり、その後は判
らないとの現地人の情報もあり話はまとまりました。現場宿舎より、アドミの用意した
トラック2台の荷台にぎゅうぎゅうになりながら、ゴラサール駅に向ったのは午前2時で
した。宿舎からゴラサール駅までの5キロほどの距離でしたが、途中トラックが故障し
、修理に時間がかかったというハプニングもあり、気をもむ中ようやくゴラサール駅に
到着しました。最終便となる汽車に乗ったのは夜が明ける頃になっていました。その後
の情報により知ったことは、それ以降ゼネストが本格化しゴラサールからダッカへの汽
車は、相当長い期間運行されなかったそうです。

謝意:独立戦争前後の話は、先輩の方々に当時の状況をお教えいただきました。
元 東洋エンジニアリング㈱工事部 吉田廣行様、プロジェクト部 渡邊政一様、今村洋
光様、忍田貞夫様、工事部 塩田 敏弘 様に深く感謝を申し上げます。

(次回掲載/その2:「1971年3月12日救援機によるダッカ脱出」につづく)

■4)『 早川崇は何故、バングラデシュに心血を注いだのか?』( 連載その2)
→早川崇は何故、バングラデシュの早期承認を熱心に働きかけたのか?
監事 早川 鎭
理事 太田清和

1.バングラデシュの独立プロセス
(1)1971年は激動の年であった。日米関係が沖縄返還と繊維交渉で揺れる最中、ニク
ソン・ショックがあり、日本国民は臍を噛んだ。
東パキスタンでは、70年12月の総選挙でアワミ連盟が圧勝。71年3月にパキスタン軍
による武力弾圧、内戦と独立戦争、印への大量難民の流出があり、国際世論の同情を集
めた。12月、第三次印パ戦争で、印軍がゲリラの支援も得て全土を制圧した。バングラ
デシュの独立プロセスは、米中接近と印ソ条約という、米中ソのパワーゲームと絡んで
、劇的な展開を見せた。
(2)当時の国際社会は、内政不干渉の原則が支配していた。人道介入が云々されるよ
うになったのは、1990年代のことである。国際社会で公然とバングラデシュを支援して
いたのは、印のみであった。
日本政府も、①内政不干渉/印パ厳正中立の立場から「パキスタン自身による東パ問題
の政治的解決」を訴え、②人道的観点から難民支援を行った。「パキスタン自身による
東パ問題の政治的解決」とは「パキスタン政府とアワミ連盟など東パ代表との対話によ
る解決」を意味していたが、これを表立って求めることまでは出来なかった。
(3)とはいえ外務省は、武力弾圧以降、東パ留学生査証の維持、対パ援助停止、東パ
出身外交官の特別滞在許可、国連議場裏での支援(特に代表7名に代表部一室を提供)
など、東パに蔭ながら寄り添ってきた。他方、6月の時点で「雨季が明け、ヒマラヤが
冠雪する年末、印が軍事的解決を目指す」と観測しており、印にも自制を求めていた。
(4)早川のベンガル(バングラデシュ)への関心は高まらざるを得なかった。早川は
、心中深く彼らの独立闘争に共感を禁じ得なかった。早川は、サイクロン募金活動にあ
たり、パキスタン大使館に東パ情勢のブリーフを求めた程であるから、節目、節目に、
外務省より、バングラデシュの独立プロセスにつき、ブリーフを得ていたとみられる。
そして閣僚を2度経験した与党重鎮として、節度を保ち言動を控え、亜大陸情勢の推移
を見守っていた。

2.バングラデシュをめぐる内外の動き
(1)国際社会は、バングラデシュの独立に概ね好意的であった。バングラデシュに距
離を置いていたのは米国。敵視していたのは中国である。米国(特にホワイトハウス)
は、米中を橋渡ししてくれたパキスタン寄りであった。中国はパキスタンと関係が緊密
であり、印がパキスタンに内政干渉していると批判し、12月の国連の場では『満州国を
再版している』と激しく非難した。
(2)自民党内では、繊維交渉、ニクソン・ショックのほろ苦さもあり、アジアの新生
国家バングラデシュを、自主独立の立場から、米国に先んじて承認すべしとの声が高ま
った。一矢報いて溜飲を下げたいとの思いがあったのである。
他方、この時期は「北京へ北京へと草木もなびく」中国ブーム。党内でも日中国交回復
を求める動きが加速していた。パキスタン軍の武力弾圧を、中国が容認していることす
ら議論にならなかった。日中友好を進めるためには、いたずらに中国を刺激したくない
という思いも強かったのである。
(3)早川の考え方は次のとおりであった。
・日本は、海洋国家を立国の大本としている以上、日米同盟は基本国策であり、ニクソ
ンの頭越し外交を以て、日米同盟関係を揺るがせることは愚かである。
・中国との国交回復に取組まなくてはいけないが、日中覚書貿易コミュニケの如く、自
民党議員が自らの佐藤政権を、中国に迎合し一緒になって非難することはあってはなら
ない。
・日米は、サンクレメンテ首脳会談(72年1月)で、沖縄返還、繊維問題など諸課題を
調整し、対中政策でも協調していくべきである。

3.内戦の終結とバングラデシュの誕生
(1)12月3日、印パは全面戦争に突入。印軍は3方面より、東パ領内に進撃。バングラ
デシュの誕生は時間の問題となった。
ここで早川は行動に出る。4日、バングラデシュのパニ移動大使が承認を求め来日する
と、早川は、福田外相に引き合わせた。外務省は、パニ大使と「公式接触はしない」と
説明した。これは「非公式接触はする」と解釈出来る。
(2)72年が明け1月10日、ムジブル・ラーマンがダッカに帰還。早川はバングラデシ
ュの誕生を喜ぶとともに、一日も早い承認を政府に働きかけた。自民党総務会のメンバ
ーにも、早期承認を促進するよう熱心に説いた。「斯クノ如ク正義感ノ強イ而モ良心的
ナ断行力アル人士ハ當代ニ誠ニ珍シイ存在デアラウト信ズル次第デアリマス」(中曽根
の推薦状)。
(3)外務省は、バングラデシュは当初は印ソの影響を受けるものの、ベンガル・ナシ
ョナリズムが強固であり、次第に自主独立路線を歩むとみていた。外務省は、①長年に
わたり培われた親日感情、②ムジブルが日本に寄せる信頼。この双方に自信を持ってい
た。71年2月25日、ムジブルは、緊急事態の際には家族を、自宅に隣接する日本総領事
公邸(外交不可侵権を享有)に避難させたいと申入れ、日本側は極秘裏に応諾していた

4.バングラデシュの承認
(1)1月10日、外務省はバングラデシュ承認に関する対処方針を決定した。
同方針は、「①新たな均衡に基づく亜大陸の平和と安定、②日本とバングラデシュとの
友好関係の意義と実益との観点に立ち、①実効的支配(印軍が占領)と、②パキスタン
との関係(承認国とは断交)との課題はあるも、英、仏など西欧諸国、豪、ニュージー
ランドなど友好国の動向をみつつ、速やかに承認に踏切ることとする」というものであ
った。
外務省と早川とは、対米対中感情を離れ、バングラデシュとの関係を深めようとする基
本姿勢で一致する。外務省は、国際情勢を見極め、友好国と承認の時期を意見交換しつ
つ、閣議決定に向け手続を進める。早川は、親米路線と親中路線の是非をめぐり、激し
い論戦が交わされていた党内にあって、承認へのコンセンサスを得るべく奔走する。早
川に近い福田外相が外務省を統括している。外務省と早川とは、早期承認に向けて緊密
に連携していたのではなかろうか?
(2)2月4日、閣議で承認の方針が固まり、承認のタイミングは外務省に一任された。
同じ時間帯に自民党総務会(総務会長は中曽根康弘)で、早川が「アジアに新しい国家
が誕生した。バングラデシュは既に国家の形態を整えている。日本は、自主独立の立場
から早期に承認し、友好を深めていくべきだ。国際的にも認められつつあり、西欧諸国
から承認の動きが出ている」と檄を飛ばし、総務会は、早期承認を求める決議を全会一
致で採択した。
パキスタンは、1月に入りバングラデシュを承認したソ連、東欧諸国に対し、直ちに断
交した。1月31日に承認した豪州など大洋州諸国には断交はなかった。2月4日に旧宗主
国の英、西独など9ヶ国が同時承認を行ったが、断交はなかった。これを見届け、2月10
日、日本は閣議で承認を決定した。国連加盟国132ヶ国(当時)で31番目。印の周縁国
を除けば、アジアで初の承認国である。米国の承認は4月4日。
(3)日本の早期承認は、①対米追随、中国迎合といった議論を離れ、②ベンガル人が
自由を求め、独立戦争を経て、新生国家を築いたことを祝し、③アジアの一員として迎
えようとする、日本の自主的な外交である。
早川は「戦後初めての自主独立外交として高く評価されるべきである」と讃えた。
外務省は「戦後日本が進めてきた自主独立外交を、米中の狭間でブレルことなく内外に
アピール出来た。早過ぎることもなく、遅過ぎることもない承認だった」と考えた。

① キッシンジャー・周恩来会談(1971 年7 月9〜10 日、北京迎賓館)

② ムジブル・ラーマン帰国演説(1972 年1 月10 日、ラムナ競馬場)[吹浦忠正氏撮影]

③ バングラデシュ独立承認閣議決定(1972 年2 月10 日)文書[外交史料館所蔵] 本 文

④ バングラデシュ独立承認閣議決定(1972 年2 月10 日)文書[外交史料館所蔵] 説明書

 

(連載その3:『早川崇は何故、バングラデシュへの援助に打ち込んだのか?』に続く)

■5)イベント、講演会の案内

◆イベント情報◆
・ロヒンギャ難民を支えるバングラデシュ女性の生活を改善したい!
https://readyfor.jp/projects/rohingya-host-community
(readyfor 2019年3月29日(金)午後11:00まで)
・国立民族学博物館などの特別協力による「アジア・アフリカの難民・避難民展」
2018年9月17日(月)~2019年3月15日(金)

アジア・アフリカの難民・避難民展


・バングラデシュ派遣・山内章子ワーカー活動報告会
~違いをこえて平和を生きる物語~(1、2月の予定) 1/17~/2/23
http://www.jocs.or.jp/event/10477.html
・ロヒンギャ問題を三つの国から眺めて見る
聖心女子大学グローバル共生研究所 難民・避難民研究プロジェクト最終報告会
3/14
http://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/kyosei-wp/wp-content/uploads/2019/01/ba4a5cada42c8aa442ad268bd39eb604.pdf
・ベンガル語講座 入門・初級コース、ステップアップコース 各全10回
詳細・お申込みサイト:http://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/news/3236/

■6)『事務連絡』

〇会員情報変更届のお願い:
事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住所変
更、メールアドレスが変更されました場合は <info@japan-bangladesh.org>  までお
知らせ下さるようお願い致します。

〇本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ勤務時の
思い出などお寄せ下さい。

宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会

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