日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)『日バ協会メルマガ56号会長メッセージ
―在日本バングラデシュ婦人協会主催第2回バザーの開催―』
会長 堀口松城
2) 現地便り: 『日本発の民間企業のWFPとの事業連携
―ロヒンギャ難民とコックスバザール周辺のバングラデシュ農家の支援―』
グラミンユーグレナ 代表 佐竹右行
3)『バングラに学校建設30年、卒業生は数千人に
自宅売って費用工面も 夫婦の原動力は「笑顔」/兵庫・篠山市』
丹波新聞
4)『地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その2 )
監事 伊藤隆史
5)『早川崇は何故、バングラデシュに心血を注いだのか?』( 連載その3)
監事 早川 鎭
理事 太田清和
6)会員の受賞のお知らせ
7)イベント、講演会の案内
8)『事務連絡』

■1)『日バ協会メルマガ56号会長メッセージ
―在日本バングラデシュ婦人協会主催第2回バザーの開催―』
会長 堀口松城

去る2月17日、北赤羽の北区民センターにおいて「在日本バングラデシュ婦人協会」
(BWAJ)主催の第2回チャリティー・バザーが開催され、多数のバングラデシュの人々
で賑わいました。会員の婦人たちが夫々作ったバングラデシュの様々の食べ物、ノクシ
カタの生地や衣類や装飾品などが売られていましたが、ノクシカタ製品についてはこれ
迄余り見ることのなかった薄手の新しいタイプの布に、新たなデザインで、明るく、淡
い色彩の模様の入った作品が目につきました。また、これ迄余りに目にしたことがなか
った新しいデザインの装飾品、宝石類なども売られており、日本にいるとなかなか分か
り難い、最近のバングラデシュ工業の質的な発展ぶりを認識させるものであり、同時に、
バングラデシュにおける中産階級の発展とその購買力の高まりを改めて実感できるもの
でした。
かつて、外国人観光客用の高級なお土産を売るお店として知られた「アーロン」が、
バングラデシュの人々の購買力の向上の結果、いくらでも国内で売れるようになったの
で輸出をやめたとの話を初めて聞いたときは、直ぐに理解できなかったのですが、バン
グラデシュの人々の懸命な努力が、このような形で表れているのを知ることは嬉しいこ
とです。
このバングラデシュ婦人協会は、2007年、日本に住むバングラデシュの婦人たちが、
バングラデシュの農村地域の恵まれない女性たちを支援し、彼女たちの目に見える生活
向上を実現することを目的として設立された由であり、昨年のバザーの収益と会員個人
の寄付で、クリグラムの水害被災家族5軒の家を建て、約100名の水害被災者に暖かい衣
類を寄贈した由です。
後日、会長のスルタナさんに伺ったところでは、本年のバザーの売り上げは、昨年を
大幅に上回った由であり、今後の計画としては、農村地域の女性の生活改善のため、井
戸を作ったり、ミシンを贈ったり、さらに将来は職業訓練所も建てていきたいとのこと
でした。
午後3時半ぐらいから、来賓の挨拶が始まり、本協会の特別アドバイザーであるファ
ティマ大使から、本協会のこれまでの努力を評価しさらなる努力を求める旨のお話しが
ありましたが、出席者の大半を占める女性たちにとって、駐日大使が女性であることは
大きな力と誇りになっていることを容易に理解することができました。
今回のバザーは終始、女性だけで運営されており、きびきびと動くその姿を見ている
と、これら女性の配偶者とみられる男性達は、バザーの初めの荷物運びと、バザー後の
ゴミの片づけだけが担当であるとのやや自虐的な話しとの比較もあり、バングラデシュ
・コミュニティにおける「Women’s Power」の高まりをを、ひしひしと感じざるを得ま
せんでした。
ダッカ在勤時代、バングラデシュの女性は宗教の影響もあり、基本的に家の外には出
ないものであると聞き、実際に見聞きした経験からもその通りかと思っていたのですが、
おそらく、BWAJの女性が特別であるだけではなく、バングラデシュ社会の急速な発展と
変化が、バングラデシュの女性一般に大きな変革をもたらし始めているのではないかと
思った次第です。


■2) 現地便り: 『日本発の民間企業のWFPとの事業連携
―ロヒンギャ難民とコックスバザール周辺のバングラデシュ農家の支援―』
グラミンユーグレナ 代表 佐竹右行

去る2月25日、ユーグレナとWFPはMOUを締結しました。(写真1,2参照)
WFPが民間企業と連携するのは初の試みです。
その内容につき報告させていただきます。現在、バングラデシュのコックスバザール周
辺ではミャンマー軍からの迫害を逃れてきたロヒンギャ難民が100万人に達しています。
元々狭いバングラデシュにこれだけの人が押し寄せてきたのですから、その混乱状態は
半端なものではありません。食糧、衣料、医療、教育等の基本的人権を確保するための
諸物資や支援が世界中から彼らの手が届けられています。
そんな中、弊社として何か出来ることはないのかということを考えていました。
この問題が世界中で注目を集め始めたのは2016~2017年くらいですが弊社は2017年12月
にユーグレナ入りのクッキー20万食を現地にお届けしました。
バングラデシュ陸軍のサポートを受け難民キャンプで無事、クッキーを配布することが
できましたがその時は本当に色々なことを考えさせられました。
この悲惨な状態がこれから何年も続くとしたら、子供たちの未来はどうなるのだろうか。
もし支援が滞ったら暴動が起こるかもしれないがその時、誰がどうやってその事態を鎮
静出来るのか。
最も教育が必要な時期に基本的な教育を受けない子供たちが何十万人も大人になってし
まったらどうなるのか。恐らくイスラム国にはこのような境遇から兵士になった者がい
るのだろうなと想像せざるを得ませんでした。
我々の知見とノウハウで何か貢献できることはないだろうか。これがスタートでした。

多くの国連機関が難民支援をしていましたが、問題の大きさに人手も資金も全く足りな
い状況でした。問題解決の為、民間連携の必要性が認識され始めていました。
そのような時に我々はWFPと相談して1つのアイデアが生み出したのです。
難民が押し寄せてきた為、様々な被害を受けている現地周辺のバングラデシュの小農家
を救い、同時に難民にも貢献できる方法です。
私達は過去10年間にわたり当地で緑豆の栽培を実施してきました。栽培方法を教え高品
質なものが収穫できれば市場よりも高く購入してきました。この方法を今回も生かすこ
とを考えました。
先ず第一に難民のために自分の土地を追いやられたバングラデシュの農民に土地を確保
して緑豆を栽培してもらい市場より高めに購入します。これにより現地小規模農家の収
入増加に貢献します。初年度の雇用は約1千名、来年度からは3千名に増える予定です。
高品質な緑豆の栽培方法を習得した農家は今後も付加価値の高い作物を収穫できます。
私達は責任を持って買い取りますので彼らは安心して緑豆を栽培することが出来ます。
第二に収穫した緑豆はWFPが運営する難民キャンプのe-vouchershopで販売します。
供給量は約1.000トン。約21.000名の難民に毎月2㎏の緑豆を供給できる量です。
先ず私たちが農家から緑豆を購入しWFPが指定する仲買人に指定された価格で売り渡し
ます。この緑豆はキャンプの中にあるWFPの直売店で販売されます。この価格もWFPが市
場価格に基づき適正な価格で販売されます。
どのショップで購入しても価格は同じです。
購入手続きを簡単にするためe-voucher(写真3参照)が活用されています。
驚くべきことに難民には既に国連より日本のSUICAのようなカードが付与されています。
難民には1か月に1,300円程度のお金がこのカードにチャージされます。
家族人数は平均5名位なので一家に6,500円程度が支給されることになりますが、これで
一家の一か月の生計は何とかやり繰りできるそうです。
その運営資金(約3億3千万円)は日本の外務省より拠出され、目に見える日本の貢献
として活用されます。
何としても本事業を成功させ困っている方々のお役に立てるよう全力を尽くさなければ
ならないと考えています。
まだ始まったばかりですが、これからも皆様のご支援をよろしくお願いいたします。

※写真1,2,3については、添付のPDFファイルをご覧ください。

□株式会社ユーグレナ ニュースリリース

ユーグレナ社、国連世界食糧計画(WFP)と事業連携に関する覚書を締結

(写真1)

(写真2)

(写真3)

 

■3)『バングラに学校建設30年、卒業生は数千人に
自宅売って費用工面も 夫婦の原動力は「笑顔」/兵庫・篠山市』  丹波新聞

※本記事は、2月12日付け丹波新聞に掲載の記事を、同社の好意により転載するもので
す。

アジア最貧国とも言われる国・バングラデシュ。そこで暮らす子どもたちの支援にと、
30年以上にわたって、自費や寄付を募って学校を建て続けている日本人の夫婦がいる。
これまでに同国内で10校以上を建設しており、卒業生は数千人に上る。初めて建てた学
校は、日本の自宅を売ったお金で費用を工面したという破天荒なエピソードも。国を超
え、子どもたちを支え続ける思いの源泉は何なのか。笑顔がよく似合う夫婦を取材した。

「子どもたちの笑顔が見たいから」
1971年にパキスタンから独立したバングラデシュは、北海道ほどの面積に約1億5900
万人が暮らし、面積が小さい国を除くと、世界で最も人口密度が高い。
国民1人あたりのGDPは世界平均の1割に届かない貧困国。近年、豊富な労働力とコス
トの低さから、外国企業の参入が増えている。
「なぜ、支援を続けているかと言われたら、子どもたちの笑顔が見たいからやなぁ」
そう語るのは、兵庫県の内陸部、篠山市で暮らす岩下八司さん(69)と妻の啓子さん
(69)。協力者と共に、バングラの子どもたちへの教育支援を行うNPO法人「P・U・S」
を立ち上げ、学校建設や文房具支援をはじめ、子どもたちの通学費用の面倒を見る「里
親」を日本で募るなどの活動に取り組んでいる。

学校制度あっても経済力なく
1985年、当時、大阪府の会社で働いていた八司さんは、日本に出稼ぎに来ていた一人
のバングラデシュ人と出会う。
「私たちの国にはたくさんの恵まれない子どもたちがいる。一度、見に来てほしい」
―。そう言われた八司さんは初めてバングラへ飛んだ。
首都のダッカは人であふれかえっていた。ひしめくように車が走っているかと思えば、
路上で寝ている人、物乞い、朝から働く子どもたち―。圧倒された。
そして、知人の地元の地方都市に出向くと、そこには学校がなかった。
国としての学校制度はある。しかし、教育を全土に浸透させられるほどの経済力がな
い。学校があったとしても、修復費用がなく、屋根が落ちたままの校舎で勉強している
子どもたちもいた。地方に行けば行くほど、教育機会の不均等は鮮明だった。
現状を目の当たりにした八司さんは、いてもたってもいられず、現地の人々と学校建
設に向けて動き出した。八司さんの亡き母は、ネパールへの支援活動を行っていた。大
人になるまで母の活動に興味を持たなかったが、知らず知らず、思いは受け継がれてい
た。

企業支援受け、学校建設軌道に
始まった学校建設への取り組み。土地は提供者が現れ、教師もなんとか探し出せた。
あとは学校建設の費用。当時、学校を建てようと思えば、日本円にして約350万円が必
要だった。
帰国した八司さんは、思い切った行動に出る。自宅を売りに出したのだ。「あのころ
は若かったんやろな」と笑う。
運よく、残っていたローンを返済しても若干、プラスになり、建設費用を工面できた。
完成した学校は後に政府公認校となり、現在、教師の給料などは国が負担している。
学校と引き換えに自分の家がなくなった八司さんだったが、社宅付きの職場に転職。
以降、幾度もバングラを訪問し、文房具を届けたり、里親制度を広めてきた。
その後、ボランティア支援に積極的な企業とつながりができたことから、活動が波に
乗った。学校建設費用も企業からの支援金で賄えるようになり、2019年中に完成するも
のも含めて、これまでに計17校を建設した。

学校が愛人の家、銃突きつけられたことも
文化の違う国の人々と、一つの事業に取り組むことは、良いことばかりではない。
預けていたお金を盗まれたり、勝手に土地を売られたり。銃を突き付けられ、村から
追い出されたこともあった。そんな八司さん最大の幸運は、活動に理解があるどころか、
共に支援に取り組む伴侶の存在だ。
「一度、建設した学校が、手伝ってくれた現地の人の愛人の家になっていたことがあ
った。その時は怒るのを通り越して笑ってしまいました」(啓子さん)
そんな2人が口を合わせる活動の原動力、「笑顔」。それを物語るエピソードがある。
最初の学校を建設した数年後、街を歩いている夫婦に声がかかった。
「イワシタ!」
見ると、子どもを抱いた見知らぬ若い母親。聞けば建設した学校の卒業生で、学校に
通えたことを感謝されたという。
夫婦は、「あれはうれしかった。いろんな辛いことがあっても、ああいうことが一つ
でもあれば、一瞬で幸せな気分になれる」と笑顔を浮かべる。
ほかの現地の人々も夫婦の活動に対して感謝の思いを抱いている。ある村の村長は言
う。
「学校ができ、子どもたちに教育を与えることができるようになった。教育を受ける
ということは、将来の夢が広がるということ。私たち大人にはタバコか茶葉の収穫しか
ないが、子どもたちは医者にだってエンジニアにだって、何だってなれる。そして、こ
の村もこの国も良くなっていくと思う」

「ボランティア」の言葉好かん
「たくさんの人が協力してくれるからできること。ありがたいこっちゃわ。自分の力
だけやと思って有頂天になるのは大間違いや」と破顔する八司さん。実は、「ボランテ
ィア」という言葉が好きではないという。
「あの言葉は好かん。ボランティアと言ったら、どんなことをしていても良いイメー
ジがついてしまう。ボランティアの中にもいろんな人がおるからなぁ」
では、2人の活動は?―との問いに、あっけらかんと答えた。
「困った人がおったら、自分ができる範囲で手を差し伸べる。それは人間として普通
のことちゃうかな。堅苦しいものではない。ただ、活動をすることでバングラの子ども
たちから生きがいを与えてもらっている。支援も含めて自然体。それがわしのライフ」
八司さんは、東日本大震災や熊本地震をはじめ、災害が起こればすぐに飛び、被災者
支援に汗を流す。もうすぐ古希とは思えない元気な2人の活動はこれからも続く。笑顔
のために。

(丹波新聞社・森田靖久)

 

 

■4)『地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その2 )
監事 伊藤隆史

(3) 1971年3月2日午前 / ダッカ駅からインターコンチネンタルホテルへ
満員の夜汽車で4時間ほどかかり、ダッカ駅に到着したときには太陽は相当高い位置
になっていたそうです。昭和46年当時、太平洋戦争に従軍した戦争体験者がまだ現役の
技術職や職工として派遣員の中に数名いました。その者たちの指導、先導により40余人
の派遣員はダッカ駅から、1班10名程度に別けられ日章旗を先頭にホテルに向かいまし
た。40余名が一緒の行動をとるのは危ないとの戦争経験者の助言で、班ごとに違うルー
トでの行進となりました。日の丸は、現場の国旗掲揚に使用していた大きなものが1つ
と残りは現場を出る時に急きょ作られた手作りのものです。ホテルに行くまでの注意は、
その戦争体験者により相当に細部にわたり説明がされたそうです。途中何かがあったら
必ず民家にばらばらで良いから逃げ込み、助けを求めることなどの指示がなされました。
何班かに分かれてホテルまで行進する際は、その周りに住民や反乱軍(東パキスタン・
フリーダム・ファイター)の人たちが古い銃、竹やりやクワの類の武器を持って取り囲
むようにいたそうです。いつ飛び掛かってくるかわからない形相でしたが、日本人が通
れるように人垣が分かれ通してくれ、危害を加えることは全くなかったそうです。
結果、全員無事にインターコンチネンタルホテルにたどり着くことが出来ました。この
ホテルは、政府軍と東パキスタン軍との間で治外法権地(総領事館内と同じ扱い)との
協定がなされたため、当時東パキスタンに来ていた外国人の多くの方が避難しており満
杯状態でした。外国人は300人を超える数がいたそうです。外は全周に渡り、政府軍が
警戒をしており、怖かったとの印象はあるものの直ちに危険だとは感じなかったとも言
います。

(4) 3月7日/アワミリーグ・シェーク・ムジブル・ラーマン党首の演説
アワミ連盟党首であるムジブル・ラーマン氏は連日のように演説を行い、その度にホ
テルの従業員は、演説会参加のために職場を離れていました。よって、食事は簡単に作
られたものがビュッフェとして提供されているにすぎませんでした。このとき10万人の
聴衆を前に競馬場(現在記念公園になっている)にて行われた演説が歴史に残る「3月7日
の演説」になりました。

(5) ホテルでの交戦のうわさ
3月9日には、パキスタン軍により守られているホテルにてフリーダム・ファイターと
の交戦が発生するかもしれないとの噂が流れたため、ホテルにいた日本人は全員が総領
事館に一時避難をしました。もともと多くの食料を備蓄しているわけでもない総領事館
でしたが、たまたまエベレスト登頂隊の日本人パーティー2組、30名がダッカにて足止
めとなっており、コメや副食も持ち合わせており、その供出の申し出がありました。総
領事館の中庭での煮炊きも登山隊の方々にやっていただきました。その夜は、総領事館
の執務室や廊下に雑魚寝をして一夜を過ごしました。ホテル近辺での交戦の可能性はな
いとのことを確認して翌日、皆がホテルに戻りました。

<昭和46年(1971年)3月の朝日新聞の記事>
朝日新聞の昭和46年3月の記事が見つかりました。3月9日、3月12日、3月14日の新聞報
道記事です。(渡邊氏提供)

※報道記事については、添付のPDFファイルをご覧ください。

(6) 各国の救援機が自国人を救出
3月8日に西ドイツ軍の救援機でドイツ人が帰国、9日には英国人が英国軍の飛行機で
避難をしており、ホテルは余裕が出てきました。残るのはアメリカ人、ソ連人、日本人
となりました。アメリカ人は、アメリカ第7艦隊が既にベンガル湾で待機しており、い
つでもヘリコプターを使い救出できる態勢になっているとのことでした。アメリカはパ
キスタン政府軍側を応援しているので、様子を見極めてからアメリカ人の救出をするら
しいとのこと。ソ連は、東パキスタン側だが、西パキスタンとも仲が悪くないので両軍
ともソ連人に危害を加えることはない。最終的に残るのは日本人だけだとの理解になっ
たようです。飛行場は多くの対空砲で完全防備されており、不明機は撃ち落とすとの宣
言をしていた状態なので、軍隊を持たない日本は、なかなか救援機を飛ばすことが出来
なかったようです。

(7) 日航救援機でダッカを脱出
日本政府の要請で日航救援機が3月12日に来るということになりました。バスで空港
に向かう道路には、いたるところにバリケードがあり、横転した車も多数見られ、まさ
に戦場という感じです。空港に職員は全くおらず軍が警備しているだけでしたので、日
本人はそのまま徒歩で滑走路に向かいました。まもなく、真っ赤な日航のマークが入っ
た機体が視界に入り、皆が歓声を挙げましたが、飛行機はしばらく旋回をして着陸する
までには結構時間がかかりました。滑走路の周りには高射砲がたくさんあり、空港の管
制塔からの官制は全く行われない中、どのように着陸するかを上空から検討していたと
のことが後でわかりました。空港に装備してあるエンジンの起動装置(圧縮空気)が故
障で動かないため、飛行機はエンジン1発を回したまま、すぐに離陸できる状態での搭
乗になりました。空港職員の全くいない空港で、タラップの移動や机などを積んで足場
を作り、携行荷物の機内搬入なども自ら行いました。古家様の寄稿によれば、この時の
記憶が一致し、ダッカ空港にて古家様等に見送られて、渡邊及び今村等がダッカ空港を
飛び立つことが出来たことになります。本寄稿の掲載日よりほぼ48年前の出来事です。

4. バングラデシュ独立後のプラントの運転再開
12月16日に独立を果たしたバングラデシュ政府は、1972年2月10日に国交を樹立後、
ゴラサール肥料工場の再開を最優先課題の一つとして、運転再開を日本側に要請してき
ました。渡邊以下10数名が機器点検、メンテナンス、運転再開の為にゴラサールに入っ
たのは、あのゴラサール脱出の日から既に1年が経過していました。新生バングラデシ
ュの現地人の真剣な作業、協力の結果、約3ケ月で全ての機器、装置の点検、修理を終
え運転の再開が果たされました。その後、新生バングラデシュの農業の発展にこの工場
で生産された尿素肥料は大きく貢献をしたことは言うまでもありません。
この国の独立18年後の1989年(今から30年前)非常に多くの先輩たちの努力の結晶でも
あるこの工場の改修工事に私自身が携わることが出来たことに感慨深いものがあります。

(次回掲載/その3:「チッタゴンおよびゴラサールでの思い出」につづく)

■5)『早川崇は何故、バングラデシュに心血を注いだのか?』( 連載その3)
監事 早川 鎭
理事 太田清和

1.政府特使の派遣
(1)2月10日、バングラデシュ承認にあたり、福田外相は、3月初めに早川崇を団長と
する国会議員4名を親善使節として派遣すると明らかにした。日本が取るべき施策を検
討すると共に、インドでガンジー首相と対バングラデシュ政策につき協議するためであ
る。そして2月12日、福田外相は、パニ移動大使との接見では、早川以下の議員を同席
させた。
(2)3月13日、早川崇は親善特使として、国会議員の長谷川峻、菅太郎、笠岡喬を率
い、初めてバングラデシュを訪問した。①国家承認に加え、②特使を派遣し、③援助(
所謂『お土産』)を用意するというシナリオは、外務省でしか立てることが出来ないも
のである。外務省は、南アジアに誕生した人口7500万人のバングラデシュを、ソ連の影
響下に留まらせることなく、友好を深め、親日国家としていく基本方針であった。伝統
的な親日感情、東パキスタン時代に注ぎ込んだ援助を活かしていかなくてはならない。
その任を託す特使として、福田外相とも諮り、早川崇に白羽の矢を立てたものと推察さ
れる。早川としても、特使の任は望むところであり、志高く、バングラデシュの地を踏
んだ。
他方、バングラデシュにしてみれば、世界各国より承認を受けてきてはいるが、特使ま
で派遣してくるのは、日本位のものである。その日本こそは、東パキスタン時代から温
かい援助を寄せてくれた友邦であり、アジアで唯一の先進国、世界の経済大国である。
早川特使を迎えるのは、大きな喜びであったに違いない。

2.ムジブル・ラーマン首相との会見
早川が訪れたバングラデシュは、国全体が、解放感と独立達成の熱気に満ち溢れていた。
4日間の滞在期間にわたり、早川も気持ちが高ぶり、興奮を抑えられなかった。
(1)3月14日、ムジブル・ラーマン首相と会見。部屋に入ると、ラーマン首相は抱き
かかえるようにして、早川に親愛の情を示し、笑顔で迎えてくれた。半生を獄中で過ご
したベンガル解放の闘士とは思われない、明朗さとロマンティックな温かい雰囲気を醸
し出す人物であった。早川とラーマン首相は腹蔵なく本音で話合い、お互いに国造りに
燃える情熱を語り合った。情熱と情熱とがぶつかり合い、溶けて一つになった。早川は、
訪日を招請する佐藤総理親書を手交し、100万ドルの肥料の無償供与、ゴラサール肥料
工場の再開に向けての技術協力を伝えた。


(2)ラーマン首相は、これらに感謝すると共に、現在バングラデシュは重大な危機に
あることを訴え、小型河川船舶、通信施設など緊急援助を要請した。さらに「バングラ
デシュを東西に2分しているジャムナ川の架橋を、是非に日本にやってもらいたい。佐
藤総理にも是非とも伝えて頂きたい。日本との友好のシンボルとなるであろう」と情熱
を込めて要請した。

3.焦土からの復興
(1)早川が、現地を視察すると、バングラデシュは内戦と虐殺の中から生れた国であ
るだけに、ないないづくし。国内各地の被害状況は、想像を絶するものであった。随所
に焼払われた村々が見られ、早川一行は心を痛めた。橋という橋が破壊され、道路は寸
断されていた。運輸と通信が麻痺した状態にあり、経済が機能しているとは言えなかっ
た。救援物資が陸揚げされても、港から国内各地への運送が出来ず、国民の許にまで届
かない。200~300万トンの米が不足しているとされ、飢饉が懸念されていた。民衆の間
で報復とリンチが止んでおらず、治安はなお不安定であった。行政機関や企業では、幹
部、管理職、専門職の人材が払底しており、行政機能や経済活動を立ち上げようにも、
どこから手を付けて良いものか、途方に暮れざるを得ない状況であった。
(2)「自由と独立」の精神的美酒が、いつまで国民に空腹を我慢させることが出来る
か。一刻も早い救援と経済再建が絶対の急務である。日本は東パキスタン時代に、年間
30万トンの尿素を生産するゴラサール肥料工場を完成した。(日本を除けば)東洋一の
規模を誇る最新鋭の肥料工場であったが、完成直後に内戦が勃発したため、稼働してい
ないままであった。早川が訪れると、数百人の工場労働者が、熱狂的に歓迎し、絶え間
なく『ジョイ・バングラ』を叫び続けた。これには早川も感動した。
(3)早川は、バングラデシュで『焦土からの復興』の必要性を痛感した。『石炭を燃
やせ!』。これは、早川が初出馬した際の選挙スローガンの一つである。当時の産業の
『コメ』は石炭であった。1946年の衆議院予算委員会で、早川は「石炭は、産業の飯で
あり、日本経済再建における根本である」と、商工大臣に増産を迫り、厳しく追求して
いる。
日本は、バングラデシュと同じく戦争の悲惨を体験し、そして復興を果たした。飢餓と
失業者をこの地から無くし、タゴールの謳った「黄金のベンガル」を取り戻さなくては
ならない。そのために、日本も一役買わなければならない。世界第3の経済大国であり、
アジアの先進国である日本が、戦争で苦悩しているバングラデシュにいかなる援助をす
るかを、周辺のアジア諸国は見守っている。バングラデシュ独立の承認に伴う、今後の
援助の在り方こそ、人道主義に立脚したわが国の新しいアジア外交の試金石である。
同じ戦争被害の悲惨さを、身を以て体験した国として。
こう決意して、早川は帰国の途に就いたのである。

4.バングラデシュのために汗をかく
(1)こうして早川は、福田赳夫率いる外務省の期待に、見事に応えていくことになる。
帰国後、早川は、政府はじめ各方面にバングラデシュ支援を熱心に働きかけた。バング
ラデシュ国内の農業生産は不作が続き、食糧危機は深刻であった。日本は毎年、数万ト
ンの米を有償・無償援助をとりまぜ供与した。また衣料など生活必需品を供与し、生活
の建て直しを支援した。さらに河川用船舶、バス、トラックなどを供与し、運輸通信網
の再建と改善を図った。ゴラサール肥料工場には、技術者を派遣し、部品を供給して、
やっと稼働させることが出来た。73年に商品借款90億円をプレッジしたが、その条件は、
当時、日本の援助で最もソフトなものであった。研修員を受入れ、機材を供与し、ジャ
ムナ橋計画事前調査にとりかかった。焦土であった最貧国に、日本から援助が注ぎ込ま
れ、専門家や青年海外協力隊などの人材も派遣され、経済活動がゆっくりとであるが動
き始めた。
(2)さらに早川は政府と財界に働きかけ、永野重雄を団長とする政府派遣経済ミッシ
ョンの派遣(1974年1月)に向けて尽力した。同ミッションは、永野日商会頭、藤野三
菱商事社長、橋本三井物産会長、守屋三菱重工社長、島田石油公団総裁、五島東急社長
など錚々たるメンバーで構成されていた。そして外務、大蔵、農林、通産、経企庁など
各省の随行員が支えていた。総勢40名。早川が、1943年、海軍省兵備局時代に、鉄鉱石
の割当を協議した相手が永野鉄鋼統制会原料部長であった。1946年から祖国再建を論じ
る『青年懇話会』(早川、中曽根を含む約20名)を切り回していたのが五島昇であった。
永野ミッションは、早川の人脈と政治力が無くしては、到底、実現できないものであった。
永野ミッションは、5日間にわたり、ラーマン首相以下各閣僚と会談すると共に、2チ
―ム、3チームと分かれ、精力的に現地視察をして回った。永野ミッションの提出した
提言は、その後の日本のバングラデシュ援助の道筋を示すものとなった。例えば、早川
と五島とは、ショナルガオン・ホテルの建設事業に精魂を傾け、1981年に開業、その夢
を実現した。
「彼ハ極メテ正義感ノ強イ熱血漢デアリマス 正シイト思ッタ事ハ 如何ナル困難ガ
アリマセウトモ 自ラ体当りヲ敢行シ 突破シテ行ク男デアリマス」(中曽根の推薦状)

(連載その4:『早川崇は何故、バングラデシュと友好に心血を注いだのか?』に続く)

■6)会員の受賞のお知らせ

2019年2月17日付の「デイリー・スター紙」は、日本バングラデシュ協会会員の小林
博子さんが、バングラデシュ政府より、「Unsung Nation Builders Award 2019」を
受賞された旨、次の通り伝えています。

「デイリー・スター紙」とIPDC Finance Ltd.は、より良きバングラデシュ建設のた
めこれ迄知られていなかった人々の功績をたたえるため2017年に「Unsung Women
Nation Builders Awards]を新設したが、この度、女性の起業家精神、健康、教育、
農業、勇気ある行動、自己開発、RMGの分野で知られざる功績のあった女性として、
小林博子氏のこれまでの女性教育に果たした顕著な貢献に鑑み、3月2日、同賞を付与
することを決定した。 」

□Saluting our unsung women heroes – The Daily Star
https://www.thedailystar.net/editorial/news/saluting-our-unsung-women-heroes-1710112

■7)イベント、講演会の案内
・ロヒンギャ難民を支えるバングラデシュ女性の生活を改善したい!
https://readyfor.jp/projects/rohingya-host-community
(readyfor 2019年3月29日(金)午後11:00まで)
・ベンガル語講座 入門・初級コース、ステップアップコース 各全10回
詳細・お申込みサイト:http://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/news/3236/
→安達理事:必要に応じ、ご記入下さい。

■8)『事務連絡』

〇第6回社員総会・懇親会の開催予定
日本バングラデシュ協会の第6回社員総会及びその後の懇親会は、6月8日(土曜日)の
11時から、昨年同様品川のTKP品川カンファレンスセンターANNEXにて開催予定です。
詳細は追ってご連絡いたしますが、ご予定を調整の上ご参加をお待ちしております。

〇協会の講演会開催に関するアンケート調査の予定
協会行事として行っている講演会に関する皆様のご意見をお伺いし、より会員の希望
に沿う運営を進めたいとの目的で、近々皆様にアンケートのお願いメールを発送いた
します。
宜しくご協力いただけますようお願いします。

〇会員情報変更届のお願い:
事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住所
変更、メールアドレスが変更されました場合は <info@japan-bangladesh.org>
までお知らせ下さるようお願い致します。

〇本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。
また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ勤務時
の思い出などお寄せ下さい。
宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

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一般社団法人 日本バングラデシュ協会

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