日本バングラデシュ協会の皆様へ

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■目次
1)『日バ協会メルマガ59号会長メッセージ
―第6回社員総会と懇親会、特にベンガル語科学生との交流―』
会長 堀口松城
2)企業便り『病院建築への想い、憧れの建築との出会い』
伊藤喜三郎研究所  取締役常務執行役員国際事業部長 鈴木光一
3)会員便り 『教育によるバングラデシュ農村の変化(連載その1)
-教育に対する農民の意識変化- 』
広島大学教育開発国際協力研究センター 副センター長・准教授 日下部達哉
4)『 地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その4 )
監事 伊藤隆史
5)イベント、講演会の案内
6)『事務連絡』

■1)『日バ協会メルマガ59号会長メッセージ
―第6回社員総会と懇親会、特にベンガル語科学生との交流―』
会長 堀口松城

1.去る6月8日開催された日バ協会第6回社員総会では、過去5年間の成果及び改
善点に関する報告と、6年目以降の活動の方向及び具体的方針について、前回のメル
マガ58号でお伝えしたラインで議論が行われました。これらは今後の活動に活かし
ていく所存です。

2.社員総会後の懇親会では、日バ協会会長挨拶の後、ファティマ・バングラデ
シュ大使および水谷在名古屋バングラデシュ名誉総領事のご挨拶と、次いで、外務
省の吉武南西アジア課長、経産省の三宅南アジア室長からそれぞれ、最近のバング
ラデシュ経済及び日バ関係の目覚ましい発展につき興味深いお話しがありました。

3.次に、東京外国語大学ベンガル語科の二年生4名と、一年生12名によるタゴ
ール・ソング3曲のベンガル語の合唱が披露されました。披露された曲の日本語名
は「新たなる喜びに目醒めよ」、「光よ、私の光、世界を満たす光、心を和らげる
光よ」そして「花から花へ そよ風の吹く安らぎ、切ないほどに」の3曲でした。

12名の一年生は4月に入学して未だ2カ月という短期間に、この日に備えて一生
懸命練習した由で、これらのタゴール・ソングを聞いて「若い時にベンガル語を勉
強しておけばよかった、せめてタゴール・ソングだけでももう少し勉強しておけば
よかった」と思ったのは私一人ではなかったと思われます。

4.このパフォーマンスが終わってから、会場の各所でこれら学生と多くの会員
の間で賑やかな会話に花が咲いていました。例えば、これ迄ベンガル語科は女子学
生が圧倒的に多かったそうですが、今年は1年生12名のうち7名が男子学生である由
で、それは最近のバングラデシュ経済の急速な発展を見て、多数の男子学生がベン
ガル語科に入学してきた結果の由です。懇親会後、バングラデシュに関心を持つ多
くの会員がベンガル語専攻の学生たちとの交流を評 価していました。

5.この懇親会が終わって数日後、2年生の女子学生から学生達を代表して礼状を頂
きました。その礼状には、「私たちは 、日本でもベンガル語とバングラデシュにつ
いて学んでいる数少ない若者であるので、今後は私たちが中心となってバングラデ
シュ国民との交流を盛んに行っていきたいと思います。日本とバングラデシュの友
好関係が続くように微力ながらも努力していきますので、これからもよろしくお願
いいたします。」と書かれていました。

6.この礼状は日バ協会にとって、大変勇気づけられるものでした。それは、つい
先月初め、日バ協会会長から東京外国語大学のこれ迄2期の卒業生に、ベンガル語科
の先生を通じ以下のメールをお送りしたからです。
「日バ協会の発展のためには、日バ関係のさらなる、新たな発展に関心を抱く若
い新規会員を増やし、日バ両国民相互の親善、相互理 解を一層広め、深めていく
必要があります。そのためには、皆様の ように若くて感受性に富み、日本の最高
学府でバングラデシュの言 葉や文化その他諸分野を学ばれた方々の知恵及び助言
さらに感性が 大いに求められるところです。
そこで日バ協会としましては、上記共通の目標を皆様と一緒に達成すべく、皆
様の目から見た日バ両国の比較、感想などの「個人便り」への投稿や、日バ協会を
より面白く、より有意義なものにしていくためのアイデア等についてのご意見を頂
きたいと願っています。(中略)ついては皆様の、積極的な参加をお待ちしていま
す。」
ベンガル語科の卒業生が参加してくれる前に、先ず、上記の様な具体的熱意を持ち
、卒業生よりも比較的時間もある在校生の皆さんとの具体的プロジェクトを、来年
の懇親会までに始めたいものです。

■2) 企業便り『病院建築への想い、憧れの建築との出会い』
伊藤喜三郎研究所  取締役常務執行役員国際事業部長 鈴木光一

皆様初めまして。伊藤喜三郎建築研究所で国際事業部長をしております鈴木光一と申
します。昨年12月の『企業情報交換会』に参加し、バングラデシュにかける皆様の熱
い情熱と愛情を感じ、その場で会員になることを決めました。どうぞよろしくお願い
いたします。

弊社は、昭和27年に創立した病院建築を得意とする建築設計事務所です。創業者の伊
藤喜三郎は、実は画家として身を立てることを志望していましたが、日々の糧を得る
ためには収入が足りず、設計事務所を興したと聞いています。
創業当時は仕事も無く、開店休業の状況が続いていましたが、東京都民生局の発注す
る「社会保険中央病院」の設計コンペに入賞したのを契機に病院建築を主要テーマと
するようになりました。病院の設計は、非常に手間がかかる反面、設計料が安いため
当時は好んでやる企業は無く、いわば隙間産業だったのです。
ところが昭和36年の国民皆保険制度の発足に伴い、保険診療を提供する病院建設の需
要が全国で高まり、この機に乗じて会社は急成長し、今日に至るまで大学病院や、地
域中核病院を含む約1千施設、病床数にすると6万床を越える病院を設計してまいりま
した。
海外でも中日友好病院(中国)、三星医療センター(韓国)、イスラマバード小児病
院(パキスタン)など、当時その国の最高峰の病院設計もさせていただきました。現
在、バングラデシュにおいて、7つの管区(Division)の国立医科大学病院に、CTや
MRIなどの高度医療機材を備えた画像診断センターを建設するプロジェクト(円借款
事業)に携わっております。また、日バ合弁企業による最初の病院事業である東西医
科大学病院(ダッカ)の設計にも少しだけお手伝いさせていただいております。


【画像:伊藤喜三郎(伊藤三喜庵)画 「菩提行」 横浜善光寺所蔵】

バングラデシュは、4年ほど前から度々訪れておりますが、毎度驚かされるのは変容
の早さ、人の多さ、活気と騒音、そして病院の混雑です。公立病院を見ると、床に寝
るほど患者があふれ、劣悪な衛生環境の中で人がひしめいています。新興アジア諸国
の例に漏れず、急速な経済成長と人口増加に伴い、健康意識や医療ニーズが高まるの
に比して、医療資源(施設と人材と投資)が圧倒的に不足しているためでしょう。昭
和30年代の日本がまさにこうだったのではないかと想像します。弊社が急成長した、
あの時代です。


【画像:某病院の院長室の監視カメラから】

かつて、伊藤喜三郎が社員に向かって言いました。「病院は清潔でなきゃいけない。
でも、病院がいちばんバッチイんだ。まずはこれを直さないといけない。ボクは、社
会のために仕事してるんだ。」あるとき、設計士に向かって言いました。「廊下の端
は必ず窓にしないとだめだ。必要があっても部屋を作ってはいけない。突き当りが壁
だったら生きる望みがなくなるだろ。」さらにこんなことも。「病院は機能的でない
といけないが、それだけではだめだ。生と死、喜びと悲しみ、さまざまなドラマが繰
り広げられる劇場なのだから、それに相応しい器でなければならない。建築は芸術な
のだから。」バングラデシュの病院の現状を見ると、若き日に聴いたこうした言葉が
湧き上がってきます。そしてまた、創作意欲がわいてきます。できることならバング
ラデシュにおける第二の伊藤喜三郎になりたいと思います。


【画像:若き日の伊藤喜三郎】

さて、私どものプロジェクトでとてもワクワクすることがあります。ダッカのシャヒ
ード・スラワルディ医科大学病院のキャンパスに画像診断センターを建設することに
なりそうだということです。この病院の本館は、世界的に有名な建築家のルイス・カ
ーンが設計したもので、まさに世界遺産級の建物です。バングラデシュが最貧国とし
て独立した1971年当時、国造りのモニュメントとして建設した国会議事堂と並ぶ2部
作のひとつです。現在は1600床の医科大学附属病院の一般外来診療棟として機能して
おり、庶民が最後に行きつく第三次医療機関となっています。


【画像:ルイス・カーン設計 シャヒード・スラワルディ医科大学病院一般外来棟】

この作品は、私の学生時代に最も衝撃を受けた建築です。大胆な円形アーチのアーケ
ードは、まさにルイス・カーンの独創的なフォルムであり、レンガとコンクリートが
作り出す豊穣な光と影の空間が、多くの人々を抱擁しています。病院というよりは、
駅や空港のようでもあり、はたまた古代遺跡のようにも見える、伊藤喜三郎が言う機
能を超えた建築芸術がここにあると思います。学生の頃から一度見たいと思っていま
した。でもまさか、ここで仕事ができるとは。素晴らしい巡りあいです。変なものを
作ったら世界中から非難されることを恐れつつ、ルイス・カーンと彼の仕事を大切に
してきたバングラデシュ国民に敬意をもって、設計を進めたいと思います。完成する
のは数年先ですが、機会があればぜひお越しください。

■3)会員便り 『教育によるバングラデシュ農村の変化(連載その1)
-教育に対する農民の意識変化- 』
広島大学教育開発国際協力研究センター 副センター長・准教授 日下部達哉

1.私とバングラデシュ
こんにちは、会員の日下部といいます。私は、広島大学の教育開発国際協力研究セン
ターで、バングラデシュの教育を研究しています。国民の8割以上が住む農村部の教
育について4つの村々を調査しています。私の専門は比較教育学ですが、バングラデ
シュで増え続けている就学者が、教育制度を通じて獲得した修了証や学位を活用して
職を得たり、進学したりするようになったのか、つまり教育制度が機能しているのか
、ということを農村のフィールドワークから明らかにしようとしています。
私はバングラデシュ建国の二年後1973年に生まれ、26歳だった99年、大学院入学を
きっかけにバングラデシュの研究を始めました。ダッカではまだ通りの主役がリキシ
ャで、今ですと1500タカ以上する宿が、300タカくらいでした。農村では、私の調べ
ている西部メヘルプール農村での農業労働の日当が一日30タカという、アジアの一貧
困国の様相であったと思います。数字で見るバングラデシュと、実際に感じるバング
ラデシュとでは天と地ほども異なっていましたが、今と変わらぬ、人々のすさまじい
活気を感じることができました。また人々の押しの強さと、どこまでも面倒を見よう
としてくれる、人のよさは天下一品で、研究もしやすい環境であったと思います。

2.研究関心:農村の教育問題の解決策
私の当初の研究関心は、どちらかといえば教育問題の解決策を探ろうとするものでし
た。教育には数多くの問題があり、例えば風雨による施設の劣化、机、椅子、教科書
といった設備や教員の不足、就学児が増えたことによる教育の質の低下、親の教育へ
の意識などのハード、ソフト両面において問題を挙げようと思えばいくらでもできま
した。
ただ、その時には既に数字の面でも、初等教育の粗就学率が96%、男女比も均等にな
りつつある時期で、課題を抱えながらも教育を受けようとする人々が増加し続けてい
た時期でした。これにはフード・フォー・エデュケーションという政策によって、子
どもがきちんと就学した場合、穀物を配給したり、中学に進学する女子生徒を無償に
したり、政府もとにかく就学にこだわった政策を打ち出したことが貢献しています。
結果として生徒たちは暑い中、狭い教室にすし詰めにされることになりました。もち
ろんそのこと自体は良くない状態です。
しかし裏を返せば、それでも学校へは多くの子どもたちが通ったわけで、バングラデ
シュの教育制度は、その発展の途上、ドロップアウトで取りこぼしをしながらも莫大
な数の中等教育修了者を生み出しました。現在、ダッカを中心に、多数の私立大学が
雨後の筍のように生まれていますが、それでも中等教育修了者の受け皿としては足り
ない状況です。

3.国民の教育に対する意識の変化
こうした「バングラデシュ教育の時代」の背景には、人々が教育の重要性を認識した
ことが大きく作用したと思います。農村においても農業か雑業に就くのではなく、徐
々に学歴を必要とするような就業のあり方によって、現金収入にありつく人々も出て
きていました。私の調べている農村のデータで、90年代~2000年代初頭の、農村部の
子ども世代のほとんどは就学しているという状態でしたが、親たちにはほとんどとい
っていいほど学歴はありませんでした。しかし、私の調査で親たちは、「子どもはチ
ャクリ(賃労者)にさせたいので、教育を受けさせる、教育がなければ何も始まらな
い」ということを認識し、子どもを就学させていました。
こうした認識、行動は、シンプルなことではありますが、国民的に実現することは難
しいことです。というのも、貧困層を対象としているBRACスクールの観察では、親が
、多忙な農作業や家事のため、授業中でも子どもを呼び戻しにきていましたので、農
村で家の働き手を中等教育まで就学させようという親の意識変化があったのは、やは
り大きなことなのです。またそうした変化が国民的に表れなければ、国として教育を
受けていない人材を抱えることになり、この重荷のために経済指標は右肩上がりに離
陸できないでしょう。こうした変化には、金品配布政策の効果もあったと思いますが
、まずはっきりと、村人たちにおける教育に対する意識の変化があり、90年代の子ど
も世代の就学は本格的なものだったことが2000年代はじめくらいまでの調査で分かり
、私はこれについて博士論文、また単著にまとめました。

4.10年間(1990年代後半~2000年代後半)の変化を追跡調査
私はその後、日本学術振興会特別研究員(京都大学)として研究を続ける幸運に恵ま
れたので、研究を始めてから10年後の2009年に、「あの時就学していた子どもたちが
どうなったか10年間の変化を調べてみよう」と思い立ち、4つの村々で3年ほどをかけ
、10年前と同じ200世帯の世帯主、また同じ質問項目で調査をし、完全に追跡できる
データを揃えました。分析できる状態になったときには、特別研究員の任期も終わり
、妻と子ども二人を抱えて、大学や専門学校の非常勤講師のバイトで食いつなぐ状況
で、「まいったな」と思っていましたが、「そういえばバングラデシュの皆さんも不
安定な中で飄々と暮らしていたな」と思い何とかなるだろうと糊口をしのぐ毎日でし
た。ある日、突然電話が鳴り、早稲田大学にあったイスラーム地域研究機構に拾って
いただき、研究を続けることができました。そこで一年半勤めた後、公募に出して運
よく現職に採用されました。

[メルマガ7月号『教育によるバングラデシュ農村の変化(連載その2)-教育は農
村の経済発展に教育はどう貢献したか(連載その2)』に続く]

■4)『 地方から見たバングラデシュの思い出』( 連載その4 )
監事 伊藤隆史

(2) 大きな浴槽のある風呂(1989年)
派遣員の多くの方々が、浴槽のある風呂に入りたいと希望されていました。肥料プラ
ントでは天然ガスを原料にしており、天然ガスは宿舎のキッチンにも引かれていまし
たので容易に使うことが可能でした。問題は、浴槽の製作、壁と床のタイルの調達で
した。まず、縦、横、それぞれ180センチ、浴槽の壁高さ50センチのコンクリート製
の浴槽を製作し、浴槽及び床の全てを白とブルー柄のタイルを貼り付け、浴槽のすぐ
脇の壁には、「富士山と相模湖」、「天の橋立」のモザイク・タイル(1cm角のタイ
ルで1枚は単色ですが、少し離れて見ると絵になります)を貼り、銭湯気分を出しま
した。日本で知り合いの銭湯に相談し「銭湯が使っているモザイク・タイル」を専門
店に特注し、取り寄せて貼り付けました。ちろん、貼りつける作業のインストラクシ
ョンは私自身が立ち会いながら行った工事となりました。この風呂は予想以上に好評
でした。


【画像:湯気にくもりうまく撮れていない写真】

お湯は毎日入れ替えましたので、皆さんは仕事終わりに銭湯のような風呂に毎日入る
ことが出来ました。感染症予防のために薬局でしか販売されていない薬用入浴剤「六
10(ムトウ)ハップ」を取り寄せ使用しました。この「六10ハップ」とは、旧日本軍の
衛生兵であった方が考案、販売していたと聞いています。昭和30年、40年代には日本
の家庭でもけっこう使用されていたようです。濃いヨード色の液体ですがお湯に溶か
すと白濁し、かすかな硫黄臭がひろがり、あたかも硫黄温泉に入っているような気分
にさせてくれました。

1990年の正月にダッカの日本大使館で行われた「新年交礼会」にて、このことを自慢
げに皆様に披露したところ、青年海外協力隊よりバングラデシュ北方シレットに派遣
されていた看護師の方など女性3名が「今度、是非ゴラサールを訪問し、体を伸ばす
ことのできる浴槽に入りたい。」とのことで、ほぼ半年後、忘れた頃にダッカから車
で3時間もかかる地ゴラサールに女性3名が「ダッカに出てきたのでゴラサールに来ま
した。お風呂に入れてください。」と訪ねて来られました。普段はタイル業者から無
償でもらった男湯の暖簾を浴室入り口に掛けているのですが、その日は急遽赤い女湯
の暖簾に掛け替えて入っていただきました。久しぶりに入った大きな浴槽の感激を残
してダッカに戻って行かれました。

8.現場宿舎で観た蛍と床上浸水事件
2006年から約2年間は、リン酸系肥料DAPプラント建設の責任者としてチッタゴンに滞
在していました。市街地から見るとカルナフリ川の対岸にあたります。プラントの引
き渡し問題から最後の約1年間は責任者である私が一人で現場に残り客先と折衝する
毎日(記録に残すような会議は週に1回程度)でした。仕事上での困難さはあったも
のの特記することは「一人で観る蛍の大群」と「現場宿舎の床上浸水事件」くらいで
しょう。

<現場宿舎での蛍> 日本では湿気が高く、猛暑になる前の6月ころに見ることのでき
る蛍がチッタゴンでは3月の中旬に光輝きます。私もその時まではチッタゴンでの蛍
の存在を知りませんでした。蛍は、その地の気候条件に従い同じ時期に成虫になり1
週間ほど光り、次世代にその命を繋ぐのだそうです。急に暑くなったチッタゴンの夜
、団扇を持ち涼んでいた宿舎の中庭で20 ~ 30匹の蛍を見つけました。なかなか良い
風景だなと思い椅子を出してしばらく見ていると、どこから来るのか段々数が増えて
きます。場所を移動すると、そこには無数の蛍が舞っていました。カメラマンがする
ように両手の親指と人差し指で長方形を作り、その中の蛍の数を数えると50 ~ 100
匹ほどいます。それが目の前に広がっていますので数千匹はいたでしょう。光ったり
、消えたり、あまりにも幻想的な光景でした。独り占めすることが申し訳ないほどで
したが、2、3日間しか見ることはできませんでした。いろいろな条件が重なって大群
の発生になったのでしょう。

<床上浸水事件>2008年ミャンマーを直撃したサイクロン「ナルギス」は4月27日に
ベンガル湾中央部にて発生し、4月29日の進路予想ではチッタゴン直撃でした。発生
直後に“Very Cyclonic Storm NARGIS”と名付けられました。1991年等バングラデシ
ュを襲ったサイクロンで約10万人以上の犠牲者を出すようなことはチッタゴンでは度
々ある土地柄、現地の人々は非常に敏感に反応しました。客先と協議の上、サイクロ
ン来襲のための避難経路等の確認をしました。4月30日に「ナルギス」は急激に進路
を東に進め、ミャンマーに向かいましたので「緊急避難体制」は解除され、5月1日夜
は現地宿舎に通常通り宿泊しました。サイクロンは2日午前に最強の強さを保ちつつ
ミャンマーに上陸しましたが、チッタゴンでも5月1日午後から2日早朝にかけて強風
が吹き荒れ、豪雨となりました。夕方には宿舎の周り一面の水、命の危険性を感じる
までになっていました。宿舎の居室(平屋建)は5月1日夜に、居室の中まで雨水が浸
水し、徐々にその高さは増してきました。ベッドのマットまで冠水するようであれば
泳いででも避難しようと思っていたところ、幸いにもあと5cm位のところで増水は止
まり、難を逃れました。

9.おわりに
バングラデシュでの仕事を始めてから35年が経過しましたが、今でも年に4回、5回は
訪問しています。過去の思い出は次から次へと浮かんできます。が、私のバングラデ
シュの思い出は、これからも増え続けるはずです。皆さんにご披露できるような楽し
い思い出が増えると良いな、と考えています。

<了>

■5)イベント、講演会の案内
〇【6/30(日)12:30~16:30】第3回日本ベンガルフォーラムの開催について
カルチャー部門「ポトゥアの今と昔」
アクティビティー部門「ロヒンギャとして生きる~迫害といじめを乗り越えた今~」
http://www.tufs.ac.jp/ts2/society/japanbengalforum/fevent.html

〇【特別日6/18(火)、6/22(土) 常設展示は7/1まで】
―バングラデシュの文化に出会う― バングラデシュ人民共和国展
https://www.city.naruto.tokushima.jp/docs/2019051700096/

〇【6/22(土)14時~開催】 4万人の先生不足。途上国の教育格差に挑むNGO
~e-Education活動報告会’19~
http://eedu.jp/blog/2019/05/20/activity_report_conference_2019/

〇【2019年6月14日(金)~7月14日(日)】
バングラデシュのスラムの現実、梶井照陰「DIVE TO BANGLADESH」展
https://imaonline.jp/news/exhibition/20190530-2/

■ 6)『事務連絡』

〇年会費納入のお願い:
先に2019年度年会費未納の会員の方々は、下記協会のゆうちょ口座へお振り込下さる
ようお願いします。

ゆうちょ口座からの振込
口座名称 一般社団法人 日本バングラデシュ協会
シヤ) ニホンバングラデシュキョウカイ
口座記号番号  00160-2-513606

銀行からゆうちょ銀行への振込の場合、
店名(店番) 019 当座預金
口座番号   0513606

〇会員情報変更届のお願い:

事務局では会員各位の連絡先等の最新版を常備する必要がありますので、皆様の住所
変更、メールアドレスが変更されました場合は <info@japan-bangladesh.org>
までお知らせ下さるようお願い致します。

〇本協会の活動などについてご意見等ありましたら、お知らせください。

また、メール・マガジンに載せたいご意見、情報、その他昔のバングラデシュ勤務時
の思い出などお寄せ下さい。

宛先:info@japan-bangladesh.org
(約1500字。体裁上若干の修正あり得ることご了承下さい。)

===============
一般社団法人 日本バングラデシュ協会

Infomation


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