■目次
1)巻頭言: 『2015年の「独立」:元インドの『飛び地』を訪ねて』

副会長 村山真弓

2)現地便り:『 「人間開発テレビ」による社会開発

―バングラデシュ国教育テレビ設立支援プロジェクトの経験から― 』

JICA 専門家チーム 専門家チームDeputy Team Leader 一般財団法人NHKインターナショナル・プロデューサー   上野智之(こうづけともゆき)

3)会員便り:『エイセフのバングラデシュとの交流30年(連載その2)

-「寺子屋を贈る運動」の成果とこれから-

アジアキリスト教教育基金事長  小田哲郎

4)理事寄稿:『ハシナ首相によるムジブル・ラーマン生誕100周年記念行事』

-ムジブル・ラーマン生誕100周年シリーズNo.2-

広報担当理事 太田清和

5)イベント、講演会の案内

6)『事務連絡』


 

1)巻頭言: 『2015年の「独立」:元インドの『飛び地』を訪ねて』

副会長 村山真弓

バングラデシュには、2015 年こそが独立年だと主張する人々がいることをご存じだろうか?

1.バングラデシュとインドの『飛び地』問題

2020 年 1 月、同僚が進めていたプロジェクトのおかげで、バングラデシュの北西部にあるラルモニルハット (Lalmonirhat)、ニルファマリ(Nilphamari)、ポンチョゴル(Panchagarh)3県に散在する元インドの『飛び地』を訪ねる機 会を得た。ダッカから飛行機でショイドプール(Saidpur)へ、そこから車でラルモニルハット県の小都市パットグラム (Patgram)に向かった。
『飛び地』というのは、他の国に囲まれた領土のことである。バングラデシュとインドとの国境を挟んで、バングラデシュ領 内(上記3県にクリグラム[Kurigram] 県を合わせた4県に散在)にインドの飛び地が111(人口は2011年7月の調査 で約 37, 369 人)、インド西ベンガル州のコーチ・ビハール(Cooch Behar)県内にバングラデシュの飛び地が 51(同 14,215 人)、合計 162 カ所の飛び地があった。
これら飛び地の起源については諸説あるようだが、17世紀末から18世紀初めにかけて、コーチ・ビハール藩王国のマハラ ジャと、ロングプール(Rangpur)を支配下に置いていたムガル帝国に帰属する地主の間の抗争や交渉の結果生まれたら しい。こうした土地をチットモハル(chit mahal)と呼んだ。中には飛び地の中にさらに飛び地が存在するという二重の飛び 地もあった。しかし、1947 年のインド・パキスタンの分離独立までは、住民の生活に大きな不便はなかった。ベンガルを分 割した国境線によって、飛び地という存在が国際問題化したのである。

2.「飛び地」問題解決の取組み

解決に向けての取り組みは過去になかったわけではない。直近はバングラデシュ独立後の 1974 年にムジブル・ラーマン とインディラ・ガンディー両首相の間で締結された国境協定である。しかしインド国内での批判や、二国間関係の冷却化が 問題解決の障害となった。
その後 2009 年にハシナ首相率いるアワミ連盟政権が 2 度目の政権を獲得し、インド側でも親バとみられていたインド国 民会議派が中央政権を取っていたことで、両国間関係が大きく進展することになる。2011 年のマンモハン・シン首相訪バ の際には、飛び地の交換を含む国境画定に関する議定書が調印された。ただし履行期限についての言及はなく、飛び地 の住民は、ハンストを実施して早期履行を求めるという手段に訴えた。
2015 年 5 月、インド議会の上下両院は漸く 1974 年の国境協定を承認する第 100 次憲法改正法案を可決した。インド の中央政権は、2014 年にインド人民党(BJP)のモディ政権に代わっていた。従来飛び地の交換に反対を表明していた BJP は、バングラデシュからの不法移民を規制するとの理由を挙げて国境画定を進める立場に転じ、また西ベンガル州政 権は、飛び地の開発や住民の生活基盤の整備等に中央政府からの予算配布を得ることを条件にそれに同意した。同年 6 月のモディ首相のバングラデシュ訪問時に批准書の交換が行われ、7 月 31 日の真夜中に飛び地の交換が実行された。 住民たちはろうそくを灯してこれを祝った。

3.飛び地住民の国籍選択と生活の変化

飛び地の住民は希望する国籍を取得できるとされた。その結果、バングラデシュにあった元インド飛び地の住民979人(3 分の2がヒンドゥ教徒)がインドへの移住を希望した。一方インド内にあったバングラデシュの飛び地住民は全員がインド国 籍を希望した。
今回出会った元飛び地の住民たちは、2015 年を彼らの「独立年」と呼んでいた。法的にはインド国民であっても、例えば 選挙権のような国民の権利は保障されておらず、聞いた限りでは、「祖国」とのつながりは、飛び地内での土地の登記がイ ンド本土の登記所にされているため、土地の所有権が変わった時などに、「違法に」(時には命をかけて)あるいは両国の 国境警備隊から正式な許可を得て、インド領内に渡るということに限られていたようだ。一方、バングラデシュ政府にとって は、彼らは他国の人であり、正式には何ら庇護を与えなかった。彼らは、いわば「無国籍」の状態に置かれていたといってよ い。
2015 年の「独立」後、すぐに電気が引かれ、トイレの設備が配られた。また、どこに行っても自分たちで学校を建設しており、 教育に対する元飛び地の人々の強い願いが伝わってきた。2015 年以前、彼らは、バングラデシュ人の知り合いの住所を 借りたり、比較的裕福な世帯はバングラデシュ側に土地や家屋を所有したりすることで、子供たちをバングラデシュの学校 に通わせていたという。しかし学歴を得ても、飛び地の出身だというと仕事を得られなかった。ある男性は、マレーシアに出 稼ぎに行くため 50 万タカをブローカーに支払った。しかし飛び地出身者であるがゆえにパスポートを作れず、金も返しても らえなかったそうだ。「マレーシアでの出稼ぎも大変な状況にあるから、どちらが良かったかわからないですよ」と慰めるしか なかった。バングラデシュ政府は、公務員のポストに様々なカテゴリーの留保枠を設けているが、元飛び地出身者枠を設け てほしいという声を、あちこちで聞いた。

4.ロヒンギャ難民の無国籍状態:教育と雇用が課題

「無国籍者」というつながりで、北西部のあと、コックス・バザールに飛んだ。滞在できる時間が限られており、しかも訪問し たのが金土という休みに当たってしまったため、できたのはロヒンギャ難民キャンプの一番端の部分を歩くことだけだった。 しかし、教育と雇用が同じように重要な課題であることは、たまたま話をした二人の若者からも伺うことができた。
若者の一人は、両親がかなり昔にバングラデシュに移住し、本人もバングラデシュ生まれてチッタゴンに家もあったという。 しかしバングラデシュ政府がすべてのロヒンギャをキャンプに移住させるという方針をとったため、移らされたとのこと。毎 日何をしているのか尋ねると、フォキル(物乞い)の仕事しかないという。もう一人の青年は、最も古いキャンプに暮らし、そ こにある唯一の学校(1~8 年生)で学んだ。本人は、もっと学びたいのに、キャンプ外の学校に行くことは認められていない。 自立して、自分たちの国を獲得するアドボカシーできるようになるには何よりも教育が必要なのに、それが認められない、国 は自分たちがそのような存在になることを望んでいないからだと憤っていた。証明書を偽造してバングラデシュの学校に通 っていたロヒンギャの子供たちは、2019 年、政府の方針で、全員退校処分になっている。

 

つい最近、バングラデシュ政府は、ミャンマーのカリキュラムに基づき、難民キャンプの子供たちに対して 14 歳までの正式 な教育を提供することを決定したそうだ。そのあとは様々な技能研修が施される予定である。
「飛び地」の問題解決には68年かかった。世界が注目するロヒンギャ難民の問題解決はそのようなことにはならない、と信 じたい。

 

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