日本バングラデシュ協会    メール・マガジン79号(2020年12月号)

日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
■1)巻頭言: 『ノズルルの故郷チュルリヤ村』

 東京外国語大学大学院教授 元理事 丹羽京子

■2)現地便り:『カチプール・メグナ・グムティ橋第2橋建設および既存橋改修事業について』

 (株)大林組ジャムナJV工事事務所 所長 川﨑 隆

■3)会員寄稿:『就学前教育からみるバングラデシュの教育熱』

名古屋女子大学 講師 門松愛

■4)会員寄稿:『バングラデシュの人々にとってボンゴボンデゥとは?』

-ムジブル・ラーマン生誕100周年シリーズ No. 12(完)-

元理事 渡辺一弘

■5)理事連載:『バングラデシュの独立に寄りそう(1970年12月):パキスタン総選挙と中国をめぐる動き』

-バングラデシュ独立・国交50周年記念シリーズ No. 6―

理事 太田清和

■6)『事務連絡』


 

■1) 巻頭言: 『ノズルルの故郷チュルリヤ村』

東京外国語大学大学院教授 元理事 丹羽京子

チュルリヤ村

数年前、わたしは念願だったある場所を訪れた。インド、西ベンガル州ボルドマン県チュルリヤ村。今日ではバングラデシュの国民詩人とも言われるカジ・ノズルル・イスラムの生地である。コルカタのハウラ駅から北西に向かう列車に3時間ほど乗るとアサンソールという町に着く。チュルリヤ村へはここからバスで行くしかない。一日に2,3本しかないバスである。点々と続くボタ山をぼんやり眺めながら1時間以上もバスに乗っていただろうか、やっとチュルリヤ村に到着する。なんの変哲もない村、と言えばそれまでだが、美しいベンガルの農村を見慣れたものにとっては寂れている感が否めない。この旅につきあってくれたジャドブプル大学の若き研究者A君が、「このあたりもだいぶ豊かになってきて…」と話し始めると、通りがかりの村人が「どこが豊かだ、裏通りを見たか、裏通りを!ここは貧しい村なんだ!」と怒ったように言い放ってすたすたと行ってしまった。

 

若き日のノズルル

ノズルルが生まれたころ(1899年)のこの村については知る由もないが、ノズルル自身は間違いなく貧しい家の生まれであった。生まれた子どもに次々と先立たれて悲観した父親からノズルルは「ドゥッコ(不幸)」などという呼び名を与えられ、そしてその父親もノズルル9歳のときに亡くなってしまっている。イスラム教徒の子どもとしてモクトブ(イスラム式の初等学校)に通っていたものの、父の死後学業は中断、ノズルルは叔父に誘われてレトと呼ばれる地元の旅芸人の一座に加わった。レトの出し物の中心は、二人の歌い手が即興で歌の勝負をするという趣向のコビガーンだったようで、このコビガーンは、かつてはベンガル全土で盛んに行われ、祭りなどには欠かせないものであった。ノズルルはこのレトでたちまち頭角を顕し、ほどなくリーダーであった叔父が亡くなると10歳そこそこにしてリードシンガーとして活躍した。才気活発で相手を完膚なきまでにやりこめたというエピソードも伝わっているが、当時は「キショル・コビ(子ども詩人)」と呼ばれ、地元では知られた存在だったらしい。
しかし20世紀にはいると、レトそのものが廃れていく。ノズルル自身もさらなる勉学への希望を捨てておらず、12歳から18歳までの間、あるときは篤志家の援助を得、あるときは奨学金を得、またあるときはレトに戻り、あるいはアサンソールの軽食屋で働いて生活費を稼ぎつつ、そして何度も転校をして高校卒業間近までこぎつける。しかしここで、ノズルルは最後の試験を受けずにベンガル連隊に参加してしまう。ときは1917年、第一次世界大戦さ中である。この決断には終生ノズルルに付きまとった経済問題が大きく作用していると思われるが、第一次世界大戦時にはまだイギリスに協力し、戦後に自治を手に入れようという機運が濃厚だったこととも無関係ではないだろう。

時代の寵児へ

 軍隊時代のノズルルはそのほとんどをカラチで過ごす。カラチ時代、ノズルルはウルドゥー語やペルシャ語に磨きをかけ、ガザル(アラブもしくはペルシャから伝わった詩形。ウルドゥーでは盛んに行われていた)や古典音楽を学び、はたまた愛国歌を作って披露し、短編小説を書いては「ベンガリ・ムスリム文学」(ベンガリ・ムスリム文学協会を母体とする刊行物。協会は当時、ベンガリ・ムスリムの数少ない文学活動の拠点であった)に投稿したりしているので、結果的にこの時期にその後の文学的あるいは音楽的キャリアの基礎を築いたとも言える。そして1920年、連隊解散後にノズルルが向かったのは、「ベンガリ・ムスリム文学」編集部のあったコルカタであった。ノズルルはその編集長にしてインド共産党の主要メンバーでもあったムザッファル・アーマドと意気投合し、しばらく事務所に同居して本格的に文学活動に取り組むようになる。翌年の引っ越し先(コルカタ市内)でもムザッファル・アーマドと同居。そしてまさにこの家で、21年の暮れ、不世出の作品「反逆者(Bidrohi)」が書かれるのである。「反逆者」は一世を風靡し、ノズルルは一躍時代の寵児となる。

闇に閉ざされて

このあとのノズルルの劇的な人生を辿る余裕はここにはない。自由闊達に自らの信じるところを表現するノズルルは当局から危険人物とみなされ、投獄もされた。私生活ではヒンドゥー教徒であるプロミラと結婚し、コミュニティー内でも孤立を経験した。しかしノズルルの勢いはとどまるところを知らず、30年代になるとその歌が人気を呼び、インドに進出したばかりのHMVと契約して、人生初めての大金を手にしたりもしている。
しかしこの絶頂期は長くは続かなかった。ノズルルに大きなモティベーションをもたらしていた長男ブルブルがわずか3歳で亡くなると、ノズルルの精神的バランスは急速に危うくなっていく。そしてそれから数年後、今度は妻のプロミラが病に倒れると経済的にも精神的にもノズルルは追い詰められていき、ほどなく完全に精神の安定を失ってしまったのだった。
このあとノズルルは三十数年間、のちに精神分裂病ともピック症とも診断された状態で過ごす。第二次世界大戦や分離独立もあり、一家はますます困窮していったのだが、1972年、前年に独立を果たしたバングラデシュ政府に招かれダッカに居を移すことになる。ノズルル本人はおそらくバングラデシュ誕生を理解してはいなかったろうが、ここで手厚い看護のもとその最晩年を過ごし、76年に亡くなったのだった。

ノズルルを探して

ノズルルの過去を辿る際に立ちはだかるのが資料不足の壁である。英領時代に出されたノズルルの詩集や冊子はほぼすべてが発売禁止の憂き目に遭っており、分離独立以前はきちんと保存できる状況にはなかったうえに、歌に関してもノズルルは当時保持していたすべての版権をプロミラの治療費にあてるために売り払ってしまっている。またそもそもその初期においては「要注意人物」であったノズルルの名前をレコード会社がクレジットするのを嫌い、その名は刻まれていない。ノズルルの名を冠することが解禁されたのちのものに関しても、当時の記録が残っていないありさまだ。
ダッカには立派なノズルル・インスティテュートが存在するが、それほどめぼしい資料がないのは、そうした事情による。また、ノズルルはその活動時期のほとんどをコルカタで過ごしているが、インド側での研究は盛んとは言い難い。冒頭のチュルリヤ村にはノズルルの生家を改造したノズルル・アカデミーと称する建物があるが、その所蔵品は目を蔽いたくなるほどの乏しさである。チュルリヤに同行してくれたA君はアサンソールにあるノズルルが働いていたという軽食屋にも案内してくれたが、そこで働くものはだれもその事実を知らなかった。アサンソール出身のA君は「ノズルルはもともとこちらの人間なのに、すっかりバングラデシュの詩人みたいになってしまって…」と悔しがることしきりである。
ノズルル自身はと言えば、ベンガル連隊から除隊した20歳のときにチュルリヤ村を訪れたのが最後であったという。ノズルルは母とも折り合いが悪かったのか、ほとんど会おうとしていない。人気のないチュルリヤ村に佇んで、ここを出て行ったノズルルに思いを馳せる。村を出てコルカタで名を馳せたノズルルはけっしてうしろを振り返ろうとしなかった。そしてそこからさらにどこまでも遠い所へ行ってしまったかのようである。

 


会員の方は下記をクリックしてメルマガ全文をご覧ください。

日本バングラデシュ協会    メール・マガジン79号(2020年12月号)