日本・バングラデシュ関係(外交関係史)

日露戦争、タゴールと岡倉天心、チャンドラ・ボースとインド国民軍、パル判事と極東軍事裁判、日本の焦土からの復興と発展。これらは、是非の議論があるとはいえ、日本・バングラデシュ関係では『通奏低音』として流れている。日本国民の『ベンガルへの共感』、バングラデシュ国民の『日本への憧れ』が、両国の友好を支えてきた。

1.東パキスタン時代(1952~1970)

1952年、日本は独立を回復すると、直ちにインド(ニュー・デリー)、パキスタン(カラチ)に大使館、カルカッタ(現コルカタ)に領事館、翌53年にダッカに領事館を開設した。東南アジアでは、賠償など戦後処理問題が残っていたが、南アジアでは、しがらみのない外交を進めることができた。

戦後復興を担った繊維・鉄鋼産業にとり、南アジアは、綿花、ジュート、鉄鉱石の輸入先であり、プラントの輸出先であった(例えば、フェンチュガンジ肥料工場、チッタゴン製鉄所)。1960年、日本はダッカに農業技術訓練センターを設立し、農機具などの技術指導を行った。62年、皇太子ご夫妻(当時)は東西パキスタンを親善訪問、ダッカでクルーズを楽しまれた。

東西パキスタンには経済格差があり、外国援助の2/3は西パキスタンに投下されていた。日本は援助の2/3を、気候風土が近似し、親日的な、極貧の東パキスタンに注いだ。

2.独立プロセスと独立直後(1970~1975)

1970年11月、東パキスタンは、サイクロンによる甚大な被災を受けた。これに対して、早川崇議員はじめ市民が街頭募金活動を行った。12月の総選挙でムジブル・ラーマン率いるアワミ連盟が東パキスタンで圧勝。独立への動きを強めると、71年3月、パキスタン軍は市民に武力弾圧を行った。これを境に日本国内の世論がバングラデシュへの同情一色となり、大量の難民の窮状に支援運動が高まった。この市民の募金活動はバングラデシュ国民の琴線に触れ、今に語り継がれている。

日本は、パキスタンへの援助停止、難民支援、国連外交など、バングラデシュの独立プロセスを、節度を保ちつつ支援した。12月、印パ全面戦争となり、印軍がゲリラの支援を得て、ダッカを攻略、バングラデシュの独立が達成された。72年2月10日、日本は新生バングラデシュを早期に承認し、翌3月早川特使を派遣した。さらに日本は、バングラデシュの国連加盟(74年)に向け支援を行った。

独立後の1972年、日本は食糧(コメ)と河川船舶を供与し、73年に青年海外協力隊を派遣した。また民間の支援としてシャプラニールなども現地に入った。73年、『建国の父』であるムジブル・ラーマン首相が訪日。74年、永野政府経済使節団がバングラデシュを訪問し、ジョムナ橋、ショナルガオン・ホテル、カフコ肥料工場、農業開発など、日本の援助の方向性を提言した。

  • 軍人政権の時代(1975~1990)

ジアウル・ラーマン(以下ジア)政権下、1977年に日本赤軍の日航機ハイジャック事件が発生した。事件解決後、日本は速やかに早川特使を派遣し、バングラデシュの尽力に謝意を表明した。78年に安保理非常任理事国選挙で、日本はバングラデシュと争って敗れた。ジア大統領は直ちに「今次選挙で日本との友好が影響を受けることなく、一層発展することを希望する」との声明を発表した。両国は相互に、わだかまりを解く配慮を示し、信頼関係を維持した。

1978年、日本は経済力に応じた貢献をめざし、ODA倍増計画に取り組んだ。日本はジア大統領(78年訪日)に援助の大幅増を約束し、アジアで主要な援助の供与先となった。

エルシャド大統領はインフラ建設を重視した。日本は、エルシャド大統領(1985年訪日)に一層の援助推進を約束し、86年以降バングラデシュのトップ・ドナーとなった。バングラデシュには無限の開発ニーズがあり、日本の援助は、広汎な分野にわたり、多様なプログラムを揃えていた。NGOなど市民も社会に分け入り支援活動を行っている。エルシャド大統領は、国民の宿願であるジョムナ多目的橋建設計画に取りかかった。同橋はやがて日本のバングラデシュ援助の金字塔となる(98年完成)。

  • 文民政権時代(1991~ )

1980年代末以降、日本は援助に加え、人的な国際貢献に取り組んだ。90年、海部総理は南アジアを歴訪し、国際協力構想 (平和協力、援助、相互理解の3本柱)を表明した。バングラデシュが文民政権時代になると、日本は民主化支援のため、91年より総選挙の度に国会議員などによる選挙監視団を派遣した。2000年の森総理訪問では、印パ核対立を背景にCTBT(包括的核実験禁止条約)など核不拡散問題、国連改革で緊密な協調を図った。

バングラデシュでは1980年代より輸出志向型の縫製業が成長していた。90年代以降は、外国投資も得て飛躍的に伸び、工業国への道を歩み出した。カレダ・ジアとハシナ両首相は、訪日の毎に、援助に加え、投資誘致を働きかけた(98年投資保護協定締結)。日本の投資は、当初は、投資環境の問題もあり伸び悩んでいた。しかし2005年頃より『チャイナ・プラス・ワン』もあって大きく伸び、進出企業数で、70社(08年)より260社(18年)に増加した。

バングラデシュは、2005年ゴールドマン・サックスにより、BRICSに次ぐ新興国11カ国『ネクスト11』に挙げられた。また2010年、バングラデシュ政府は『ビジョン2021』を掲げ、建国50周年に中進国入りを目標としている。日本が東パキスタン時代以来、国造りを支援してきた成果が実を結びつつある。

2014年、安倍総理とハシナ首相は相互訪問で、『包括的パートナーシップ』を立上げた。バングラデシュは、地政学的に、インド洋への出口、南アジアと東南アジアとの結節点に位置し、その安定と発展は日本にとり意義が大きい。日本との友好関係は、全方位外交を進めるバングラデシュにとり、印中米など大国とのバランスを取っていく上で重要である。バングラデシュの躍進を踏まえ、両国は、伝統的な友好関係を強化し、グローバルな課題での協力、経済的互恵、文化人的交流など、協力関係の次元を高めようとしている。

2016年、イスラム過激派によるダッカテロ襲撃事件で邦人援助関係者7名が犠牲となった。両国が、この試練を克服し、新たな時代に相応しいパートナーシップを築き上げていくことを期待したい。(文責:太田清和)